後鳥羽上皇

後鳥羽上皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

なぜ後鳥羽上皇は鎌倉幕府との対決を選んだのか?隠岐に散った生涯60年

2025/02/22

延応元年(1239年)2月22日は、後鳥羽上皇が配流先の隠岐国で亡くなられた日です。

【承久の乱】という、インパクトのデカいエピソードを持っているため、歴代天皇や皇族の中でも記憶に残っている方が多いのではないでしょうか。

一人の人物としてみていくと、意外と親近感や人間くささを感じさせる方でもあります。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、落ち着いた所作で頭脳キレッキレ……かと思えば、ラストは文覚にからまれ情けなさも見せていた姿を尾上松也さんが演じていますね。

史実ではどんな人物だったのか。振り返ってみましょう。

後鳥羽天皇(後鳥羽上皇)/wikipediaより引用

 


神器なしで即位した3歳の後鳥羽天皇

後鳥羽天皇が生まれたのは、治承四年(1180年)7月14日のこと。

いわゆる”源平の合戦”が本格化しようとしていた頃です。

なにせこの年だけでも、以下の通りの慌ただしさ。

5月 以仁王が挙兵して敗死

6月 平家が福原へ遷都したため、祖父の後白河法皇や父の高倉上皇、そして兄の安徳天皇も同地へ移動

8月 源頼朝が挙兵

皇室の習慣として、お産に際して后妃(こうひ)は宮中を出て、実家もしくは準ずる貴族の屋敷に下がる習わしがあったため、後鳥羽天皇は遷都に巻き込まれなかったようです。

さらに寿永二年(1183年)には平家が異母兄の安徳天皇を伴って都落ちしたため、後白河法皇により後鳥羽天皇の即位が決定されました。

しかし、平家により三種の神器が持ち去られていたため、これを理由に反対する声もあったようです。

後白河法皇としても頭の痛いところで、占いをしてみたり、公家・学者への下問を重ねて検討したり、慎重に動いています。

後白河法皇/Wikipediaより引用

そして悩み続けた結果、「神器なき即位」が朝廷で承認され、後鳥羽天皇が即位しました。

ただし、”神器なき即位”はその後も後鳥羽天皇自身と公家たちの間で精神的に尾を引くことになります。

また、平家とともに沈んだとされる天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ・草薙剣など異名多々)だけは、何度捜索しても見つからなかったとされています。

 


天叢雲剣は武力の象徴だからこそ

時系列が飛んでしまいますが、後に、後鳥羽天皇の息子である順徳天皇が承元四年(1210年)に践祚したときのこと。

平家が三種の神器を持ち出す前に、後白河法皇が伊勢神宮から献上されていた剣を代わりにしています。

伊勢神宮・内宮の宇治橋鳥居

後鳥羽天皇は、その2年後にも天叢雲剣の探索をさせているあたり、諦めきれなかったようです。

三種の神器には複数の形代があるといわれていますが、当時、喪失してしまうのは空前絶後のことで、トラウマやコンプレックスの種になってしまうのも仕方のないでしょう。

なんせ天叢雲剣は「天皇の武力の象徴」とされているものです。

正式な武力の象徴を持たなかった後鳥羽天皇が、後に武家のまとまりである鎌倉幕府に敗れた……というのは、なかなかに皮肉な史実ですね。

時系列を後鳥羽天皇の即位直後に戻しましょう。

 

18歳で譲位 三代にわたって院政を行う

前述の通り、後鳥羽天皇は3歳という幼児で即位したため、しばらくの間は後白河法皇が院政を行いました。

そして文治元年(1185年)に平家は壇ノ浦で滅亡、安徳天皇も入水という結果に終わります。

安徳天皇/wikipediaより引用

まだ5歳の後鳥羽天皇は、顔も見たことのない異母兄の最期をどう思ったのか……。

建久元年(1190年)1月になると、後鳥羽天皇は元服し、摂政だった九条兼実の娘・任子を中宮にしました。

これにより兼実は天皇の舅として権力をふるうようになります。

一方、関東で新たな政権を作り始めた源頼朝も接近してきました。

同年秋に頼朝が上洛し、後鳥羽天皇にも拝謁。

頼朝の娘・大姫が後鳥羽天皇と釣り合う年頃であり、後白河法皇の寵姫・丹後局への牽制にもなることが大きかったでしょう。

残念ながら大姫は程なくして亡くなり、代わりに妹の三幡(乙姫)の入内が計画されました。

しかし、頼朝が建久十年(1199年)1月に、三幡本人も同年6月に亡くなったため、この話は流れています。

もしもここで後世にいうところの「公武合体」が起きていれば、その後の朝幕関係、ひいては日本史が大きく変わっていたかもしれませんね。

建久三年(1192年)には後白河法皇が薨去し、後鳥羽天皇にとって摂政である九条兼実の力が強まります。

九条兼実/wikipediaより引用

任子との間に皇女・昇子内親王が誕生しましたが、兼実からすれば外戚としての地位は見込めません。

二人の間に子供ができることが証明されただけでも、まずは御の字といったところだったでしょう。

兼実は親幕派でもありました。

源頼朝の将軍就任に骨を折ったり、頼朝の娘を入内させる算段をつけたり。

ここまで露骨だと、後鳥羽天皇や他の貴族たちからは煙たがられます。

その筆頭が、土御門通親(つちみかど みちちか)という貴族でした。

土御門通親は公家である村上源氏の出身で、源通親ともいいます。

通親もまた養女・在子を後鳥羽天皇に入内させており、後鳥羽天皇の血を引く子供の誕生を心待ちにしていました。

そして、在子が後鳥羽天皇の皇子(のちの土御門天皇)を出産したことにより、通親は「将来の天皇の祖父」という揺るぎない地位を手に入れます。

つまりは

通親>>>兼実

という力関係ができたわけです。

土御門通親(源通親)/wikipediaより引用

兼実とその娘である中宮・任子は朝廷から追われることになります。

後鳥羽天皇は18歳で、わずか3歳の第一皇子・土御門天皇に譲位し、その弟・順徳天皇、順徳天皇の息子・仲恭天皇の三代にわたって院政を行いました。

外戚・通親の権勢を抑えるためでもあったのでしょう。

当時は院政こそ望ましい政治形態だと思われていた時代でした。

「上皇が政治、現職の天皇が儀式を受け持つことでバランスが取れる」という考えですね。

おそらく、次世代が若い(幼い)うちに譲位しておけば、後継ぎとなる皇子が現職の間に産まれる可能性が高まり、皇位継承がスムーズになるという意図もあったのでしょう。

当時の乳幼児の死亡率からすれば、一人どころか二~三人候補者がいても、疫病などで全滅……ということも珍しくありません。

 


譲位後には和歌に熱中

心身ともに成長したこともあってか。

後鳥羽上皇は土御門通親や近辺の公家を整理し、どこか一つの家に偏らない政治形態を作ろうとしました。

平家の興亡に関する話を詳しく聞かされ「同じことは二度と繰り返してはならない」という意思を持っていたのかもしれません。

一方で古来からの儀式や作法の再興・整備にも取り組みました。

これは貴族たちからしても願ったり叶ったりというところ。

なにせ科学の未発達な時代ですから、神や先祖への祭祀が国の行く末を左右すると本気で考えられていたのです。

また、後鳥羽上皇にはかなりの財力がありました。

後白河法皇から相続した領地や、当時、存命中だった女院・内親王たちの領地を後鳥羽上皇が管理していたためです。

いくつかの御所を築き、特にお気に入りだった水無瀬離宮には、たびたび貴族たちを呼び寄せて遊びに興じたとされています。

現在の水無瀬神宮拝殿/wikipediaより引用

ここだけ聞くと「豪遊するご隠居」といったイメージが先行してしまうかもしれませんが、源平合戦で分断された貴族たちを再び皇室に結びつけるには、私的な場面も必要だったのでしょう。

現代でいう「無礼講」のように、気軽な雰囲気の催しもあったようです。

当時はまだ新しい衣類だった「水干」を着るよう貴族たちに指示し、上皇自らも着てみせた……なんて話があります。

この辺の柔軟さというか遊びっぷりは、祖父である後白河法皇の血がうかがえますね。

一方で後鳥羽上皇は信仰心も厚く、伊勢や熊野への行幸を多々行いました。

「神器なき即位」をしたからこそ、より多く神仏の加護を求めたのかもしれません。

 

和歌史上最大の歌合わせを開催

また、譲位した後くらいの時期から、後鳥羽上皇は和歌にも熱中し始めました。

治天の君(=実際に政治を取り仕切っている皇族)になって忙しいはずですが、積極的に歌会や歌合わせ(和歌の競技会)を開くようになったのです。

例えば、藤原俊成・藤原定家の親子を中心とした”御子左家”の歌風を特に気に入り、彼らとその縁者に参加を求めています。

俊成を和歌の師としてからは、後鳥羽上皇自身の歌のグレードも格段に上がり、自分の成長と同時に若い歌人も詠進を求め、歌壇全体がレベルアップ。

建仁元年(1201年)7月には、1500番という超大規模な歌合わせを催しています。

30人の歌人に命じて100首ずつ歌を出させ、披露や勝敗は決めないものでしたが、それでも和歌史上最大の歌合わせです。

さらに、同年11月には定家らに命じて、この「千五百番歌合」などをベースにして勅撰和歌集の編纂を命じました。

古典でもおなじみの『新古今和歌集』です。

新古今和歌集(1654年写本)/国立国会図書館蔵

後鳥羽上皇自身も積極的に歌選びや並び順に意見を述べたということが、定家の日記『明月記』などからわかっています。

「自分が好きなものを大いに盛り上げたい」という姿勢とその規模がさすが天皇(上皇)ですね。

そういえば祖父の後白河法皇も「やりすぎでは?」というレベルで今様(当時の流行歌)を愛好していました。

遊び方もハンパじゃない後白河法皇|血を吐くほど今様を愛し金銀でボケる

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凝ってしまうのは血筋なんでしょうか。

後鳥羽上皇の父である高倉天皇も、長生きしていればそういう面が見えたのかもしれません。

 

人もをし 人も恨めし あぢきなく

後鳥羽上皇の和歌への熱狂ぶりはかなりのもので、お忍びで町中の賭け連歌の会へ出向いて勝ったこともあったとか。お茶目かいな。

それだけに御製(ぎょせい・天皇や皇族の詠んだ歌)もかなりの数に登り、今回はごく一部を「意訳」とともにご紹介しましょう。

吹く風も をさまれる世の うれしきは 花見る時ぞ まづおぼえける

【意訳】風や戦の収まった世を最も嬉しく感じるのは、桜を心ゆくまで見られるときだ

承久の乱の前、建暦二年(1212年)の春に、内裏の「左近の桜」を見て詠んだものだといわれています。

最近は「和歌は昔の人のツイッター(X)」という意見もありますように、身近な文物への感動を表した歌は、まさにそんな感じですね。

そして、百人一首99番に採られ、おそらく後鳥羽上皇の御製で一番有名な歌がこちらです。

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は

【意訳】世の中のために何かを考えていると、人間のことを愛おしいとも、恨めしいとも思う

承久の乱の数年前に詠んだとされているこの歌。

源実朝のスピード出世などを考えると、後鳥羽上皇も幕府とどう付き合っていくべきか、かなり悩んでいたのではないか……と思えてきます。

時系列が前後してしまいますが、流刑後の歌も少々見ておきましょう。

夕立の はれゆく峰の 雲間より 入日すずしき 露の玉笹

【意訳】夕立が上がった山にかかる雲の間から陽が差して、笹に残っている露を照らしているのがなんとも涼しげだ

われこそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け

【意訳】我こそは、この島の新しい守り人であるぞ。隠岐の波風よ、心して迎えるがいい

ベースはシンプルに、天皇らしい優美さと、個人的な剛毅さ、そして内心のコンプレックスや気負いなどがなんとなくうかがえる歌が多い気が……。

一方で、後鳥羽天皇は武芸も好んでいます。

自ら弓を取って射撃の練習をしたり、蹴鞠や相撲に興味を示したり。

多趣味というかエネルギッシュというか。なかなかのマッチョだったようで、溢れるパワーの消費しどころを探っていたようにも見えます。

 

源実朝とは定家を通じて

時が流れて源実朝が三代将軍になると、幕府と朝廷の関係が一時的に改善に向かいます。

二代将軍・源頼家から実朝への継承には【比企能員の変】など物騒な経緯があり、当時まだ幼名「千幡」だった実朝を北条氏が慌ただしく元服させて跡を継がせました。

源実朝/Wikipediaより引用

この「実朝」の名は後鳥羽上皇が与えたものです。

おそらくこの時点で、後鳥羽上皇はこう考えたのでしょう。

「代替わりを期に、鎌倉政権には”自分たちは朝廷の傘下にある”ことを自覚させるべし。それにはまず、幼い新将軍に庇護を与えて、ガッチリ取り込む」

事実として、実朝が将軍を務めていた間は、朝廷と鎌倉幕府の関係はかなり良い方に向かっていました。

その理由は主に3つあります。

ひとつは、実朝本人が上方を敬う姿勢だったことです。

兄の頼家が母や御家人たちと対立し、自分ひとりで政治を担おうとした気概を見せたのに対し、実朝は頼朝の事績を学び、宮廷を重んじるスタンスを表しました。

実朝が数え12歳という幼さで将軍職を継いだためかもしれません。

結婚にもそれが表れており、母・政子が

「妻は御家人の娘から迎えるように」

と言い出した時、実朝は

「どうしても公家の姫をいただきたい」

と粘り、これに政子たちが折れて、御家人が京都で嫁探しをすることになりました。

これを受けて、後鳥羽上皇は自分の母の実家・坊門家から姫を実朝に許しています。

この女性についてはあまり記録が残されていないのですが、政子と一緒に実朝の健康祈願へ出かけたこともあり、北条氏とも比較的良い付き合いができていたと思われます。

おそらくは、実朝夫人や周辺の人から坊門家に幕府方の印象や実朝の人柄に関する話が伝わり、後鳥羽上皇も聞いたことでしょう。

 

「宮廷を敬い、温厚な性格で、同じ趣味がある」

2つめは、実朝が乱暴な性格ではなかったこと。

実朝は筋骨たくましいタイプではなく、線の細いタイプだったと考えられます。体調を崩すこともままあり、武芸にも身が入らなかったようで。

御家人からは「柔弱」と取られることもありましたが、政治についてはっきり自分の意見を持っており、内面は芯が通っていたと思われます。

そしてラスト3つめは、実朝と後鳥羽上皇に「和歌を好む」という共通点があったことです。

実朝は手紙で藤原定家に歌の添削を頼んでいました。

藤原定家/wikipediaより引用

前述の通り、後鳥羽上皇も定家から影響を受けて和歌を詠んでいましたので、精神的には兄弟弟子のようなイメージを抱いていたかもしれません。

不思議なことに、定家の歌は技巧的・優美な歌が多いのですが、後鳥羽上皇や実朝は技巧的というより素直な表現の歌が多く、気が合うのでは?といった感があります(※個人の感想です)。

簡単にまとめると、後鳥羽上皇からみて

「宮廷を敬い、温厚な性格で、同じ趣味がある」

という人物だったのですね。

それが遠く離れた坂東の責任者になったわけですから、なんとなく「うまくやっていけるかも」と思った可能性はあるでしょう。

そんなわけで、後鳥羽上皇としても、

実朝存命中は幕府との融和を考えており、そのために実朝の官位を爆上げした

という見方が近年強くなっているようです。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、それを匂わせるシーンがありましたよね。

念押しに実朝が上洛して後鳥羽上皇にあいさつし、実朝の子供以降にも「将軍は宮廷へご挨拶する」というような習慣を作れれば、朝幕関係は末永く続いたかもしれません。

史実では、実朝が息子に恵まれる前に暗殺されてしまったため、この流れは変更せざるを得なくなってしまうのですが……。

むろん即座に承久の乱へとなだれ込んだわけではありません。

実朝の暗殺は建保七年(1219年)、承久の乱は承久三年(1221年)です。

その2年ほどの間に何があったのか? 後鳥羽上皇の視点でみていきましょう。

 

トラブル続きで東国武士と決別

実朝に子供がいなかったのは前述した通りで、それ以外にも源氏の血脈は絶えていました。

頼朝の存命中に弟たちはほぼ粛清され、実朝の兄・頼家とその息子も同様の憂き目に遭っています。

どうにかこうにか将軍になれる血筋の人を上に据えないと、鎌倉幕府が瓦解してしまう。

そこで幕府の中枢は、朝廷に願い出ました。

「後鳥羽上皇の皇子のどなたかに、将軍としてこちらへ下ってきていただけませんか」

上皇はこれを拒否。

代わりに頼朝の遠縁にあたる九条頼経(兼実の曾孫)を遣わします。

頼経は当時元服していないどころか、まだ1歳。

元服したのは承久の乱の後、嘉禄元年(1225年)のことでした。

しかしなぜ後鳥羽上皇は親王の東下を拒んだのか。

というと「上方と東国に両方とも皇族がいたら、国が割れる元凶になる」リスクを危惧したからだといわれています。

私見ながら「二代続けて自分たちの身内である将軍に不審な最期を遂げさせたような幕府に、大事な皇族を預けてたまるか」といった懸念もあったのでは?

それで身代わりにされた幼い藤原頼経も哀れですが……。

少し先の話をしますと、頼経の後は彼の息子が将軍となり、さらにその後は皇族が鎌倉幕府の将軍になっています。

しかし「宮将軍」と呼ばれた六代目以降の将軍はほとんど動向がわかっておらず、最後の将軍となった守邦親王については、倒幕の際どこにいたのかすら不明です。

「倒幕後間もなく出家した”らしい”」「その後三ヶ月ほどで亡くなった”らしい”」とだけ伝わっています。

この後に【中先代の乱】をはじめとした鎌倉周辺の幕府復興運動の際も、守邦親王が担ぎ出されたとか北条方が接触したとかいう話もないので、完全に忘れ去られています。

つまりそれほどないがしろにされていたわけで……後鳥羽上皇が親王を送りたがらなかったのは正解だったということになりますね。

 

所領の利権でも地頭と揉めて

後鳥羽上皇が幕府に対して不審を抱く出来事は他にもあります。

実朝の暗殺と同じ年のうちに、こんな事件が起きています。

「内裏守護である源頼茂(摂津源氏の人・頼朝たちの遠い親戚)が西面武士に襲われ、内裏の仁寿殿に籠って討死する」

この事件では被害が大きく、内裏を再建する羽目に陥っています。

そのための人手を出すよう、後鳥羽上皇は全国へ命令を出したのですが……東国の地頭たちがこれを拒否しました。

幕府ができて既に20年近く経っており、東国生まれ(育ち)で京を知らない若い世代からすれば

「どこの誰かもわからんヤツのため、なぜ人と金を出さなきゃならんのだ?」

と思っても不思議ではありません。

また「西面武士」というのが後鳥羽上皇の設けた新しい役職だったため、これも東国武士にしてみれば

「そもそもは朝廷の責任じゃないか。んなもん知らんがな」

と思えても仕方ないでしょう

西面武士というのは、後鳥羽上皇の親衛隊みたいなものです。

そのため後鳥羽上皇は「最初から幕府と対決するつもりだった」とも言われたりしますが、平家の専横で荒れてしまった京で、警護を強化するのは不自然でもなんでもありません。

少し前に源頼朝が上洛したときも、鎌倉武士同士で刃傷沙汰が起きていますしね。

最終的に内裏の再建については西国各地からの費用で賄われ、その負担はかなりのものだったはず。

結果、後鳥羽上皇が幕府や東国への印象を損ねたことは間違いないでしょう。

後鳥羽上皇としては「自分が日本全体の主君だ」という自負があるわけです。

また、上皇が寵姫・伊賀局の領地の地頭を廃止してほしいと幕府に訴え、それを拒否されたことも機嫌を損ねる一因になったと思われます。

ややこしい話ですが、当時の土地は、朝廷の役職である「国司」(だいたい貴族・◯◯守とか)と、幕府の役職である「守護」「地頭」(どっちもほとんど武士)が混在していたため、徴税等に関するトラブルが頻発していました。

守護や地頭が先に徴税してしまうと、国司に収める分の税がなくなり、地元民も朝廷も困窮する……といった具合です。

金銭(食糧)面からしても公武の衝突は不可避だったとも言えそうです。

 

承久の乱

こうして幕府に対する悪印象を積み重ねていた後鳥羽上皇と朝廷の人々。

承久三年(1221年)5月14日、ついに彼らは覚悟を決めます。

後鳥羽上皇は流鏑馬を口実に諸国の兵を招集し、招集に応じなかった御家人・伊賀光季や親鎌倉派を粛清して、倒幕の兵を挙げました。

藤原秀康に命じたシーンは大河でも描かれましたね。

藤原秀康イメージイラスト
「今はここから早う去ね!」藤原秀康が後鳥羽上皇に見捨てられた最期

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我々は結果を知っていますので、この手の動乱については『やっちまったな……』という印象を持ちがちです。

しかし、少なくとも乱が始まる前の後鳥羽上皇陣営はイケイケ!

西面の武士だけでなく、鎌倉幕府の主要御家人を幾人か配下に従えていたので、いざ戦が始まれば味方に引き入れると踏んだのでしょう。

後鳥羽上皇はもともとリーダーシップに優れており、武士に慕われる要素も持ち合わせていました。

ゆえに挙兵した段階では、少なくとも畿内周辺は味方だらけになってもおかしくない――そんな皮算用をしたくなるのも無理はありません。

しかし、現実は厳しいものでした。

院宣を出して2ヶ月後には北条義時の嫡男・北条泰時が軍を率いて上洛し、主に乱に関わった後鳥羽上皇や順徳天皇が配流となるボロ負けに追い込まれるのです。

和田合戦の北条泰時(歌川国芳作)/国立国会図書館蔵

鎌倉方も当初は確かに動揺していました。

しかし、北条政子の大演説や、長老・大江広元らの叱咤などにより、士気を取り戻したのです。

鎌倉方が結束する前に、朝廷軍が鎌倉近辺まで進行できていれば、話は変わったかもしれませんが……当時の通信事情では、そんなことわかりっこないですよね。

「兵は神速を尊ぶ」とはよくいったもの。

破竹の勢いで進んできた幕府軍が、京都の入り口である宇治川の戦いで藤原秀康らを破ると、もはや上皇方に為す術はありませんでした。

宇治川を突破されると、あとはなすがまま。

満足な防御施設のない御所はすぐに陥落し、その後は皆さんご存知の通り、後鳥羽上皇は隠岐への流罪が決まります。

共犯だった三男・順徳上皇も佐渡へ流されました。

なお、このとき関与していなかった後鳥羽上皇の長男・土御門上皇は、当初はお咎めなしだったのですが、自らこんな申し出をします。

「父や弟が流されてるのに、私だけ京にいるなどできない。自分も流刑にせよ」

幕府も気を遣ってか、こう答えています。

「それほど仰られるのでしたら、都からは出ていただきますが、近いところにしますね」

そして最初は土佐(現・高地県)に、次に阿波(現・徳島県)を配所にしました。

土御門上皇自身が寛喜三年(1231年)に亡くなっているため叶いませんでしたが、鎌倉幕府としては、ほとぼりが冷めれば京へ戻すつもりだったかもしれませんね。

土御門天皇
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他に、後鳥羽上皇の孫で順徳上皇の息子である仲恭天皇も廃位となり、その系統は皇位から遠ざけられることになります。

代わって、仲恭天皇の次には、後鳥羽上皇の兄で安徳天皇の弟である守貞親王(後高倉法皇)の皇子・後堀河天皇が立ちました。

院政は後高倉法皇が行っています。

 

「隠岐の牛突き」

話を後鳥羽上皇に戻しましょう。

後鳥羽上皇は京都を出る直前に出家し、法皇として隠岐の地を踏みました。

もともと蹴鞠や楽器、相撲に水練など多趣味なお方ですから、配流先での無聊を慰めるものには事欠かなかったと思われます。

むしろみなぎる闘志の表れか、元久二年(一二〇五)に作られていた『新古今和歌集』にさらに手を入れ、「隠岐本」と呼ばれるバージョンを作っていました。

現代風でいうなら新訂版みたいな感じですかね。

ただし、都を懐かしんでか、隠岐での歌は

軒は荒れて 誰 (たれ) かみなせの 宿の月 過ぎにしままの 色やさびしき

といったように、物悲しさが勝る物が多いように見えます。

隠岐で暮らす地元民からは「おいたわしや」と思われていたようです。

現代に伝わる「隠岐の牛突き」は、離島で不遇をかこつ後鳥羽上皇を慰めるために始まったとか。

隠岐の牛突き/wikipediaより引用

牛同士の相撲といった感じの競技で、ときには一時間以上に及ぶ取り組みもあるそうです。牛の体力、すごいですね。

後鳥羽法皇は隠岐でも多くの歌を詠んでいますし、配流先の生活も気が滅入るばかりではなかったのかもしれません。

少なくとも周囲から嫌われていたら、島民も積極的に慰めようなどと思わなかったでしょう。

その後、後堀河天皇が22歳という若さで亡くなったため、当時の都人は

「後鳥羽上皇は生霊になり、後堀河天皇を取り憑き殺した」

と思っていたようですが、さすがに不名誉すぎかと。

後鳥羽上皇が狙うなら北条義時であり、先に亡くなっています。

最後にもう一つ、後鳥羽上皇に関するエピソードをご紹介しましょう。

後鳥羽上皇は京都にいた頃、お抱えの刀工に刀を打たせ、自らも焼刃を入れる……ということを頻繁に行っていました。

刀には「十六弁の菊紋」を彫り込んだといわれています。

これを「御所焼」や「菊御作」と呼び、菊紋のはじまりとみなされるようになりました。

現代でも、花びらが十六枚の「十六菊紋」は皇族だけが使える紋章です。

武家政権の台頭を(不本意ながら)決定づけたことと、菊の御紋。

後鳥羽上皇は日本史に最も大きな影響を残した天皇……といってもいいかもしれませんね。


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長月 七紀・記

【参考】
坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱 (中公新書)』(→amazon
本郷和人『承久の乱 日本史のターニングポイント (文春新書)』(→amazon

国史大辞典
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)
隠岐の島(→link

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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