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【新田義貞】
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しかし、その度に親戚一同や他からの増援があったりして勝つことができました。
結果、鎌倉で北条氏を撃破、鎌倉幕府は義貞の手によって、挙兵からわずか2ヶ月で滅びています。
このあたりが義貞の絶頂期といえるでしょう。
鎌倉幕府の滅亡!北条高時の最期は「腹切りやぐら」で一族ほぼ自害
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どうしてもライバルに人気で勝てない
しかし、義貞の運はそこまででした。
倒幕を果たした後、周囲の人々は
【官位・家柄・人格】
の三拍子揃った足利尊氏ばかりをチヤホヤしだしたのです(ただし躁鬱の兆候あり)。
足利尊氏は情緒不安定なカリスマ将軍?生誕から室町幕府までの生涯
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もちろん尊氏も手柄はありましたが、手のひらを返されたような形になって義貞はさぞ悔しかったことでしょう。
義貞も何とか認めてもらうべく、上洛して自分と一族に官位をもらいます。
それはあくまで尊氏よりもずっと低く軽く、どう考えても倒幕一番の立役者には相応しくないものでした。
おそらく元々官位がなかったので「いきなり尊氏と同等にはできないからとりあえずコレな」という扱いをされてしまったのでしょう。
その後、尊氏と朝廷の仲が悪くなると、対抗できる人物として朝廷は義貞を担ぎ上げるのですが、戦でも政治的にも鳴かず飛ばず。
周辺にサポートできる人物がいなかったのもイタイところでした。
一説には楠木正成から「義貞は役に立たないからクビにしましょう。物理的に」(超訳)とまで言われてしまっていたそうです。
あくまで武士としての誇りを大切にする義貞と、悪党(正規の武士以外の戦闘階層)から成り上がった正成とでは価値観が根本的に違うので、理解しあうことができなかったのはないでしょうか。
結局、公家達から「義貞は血筋がイイからいいの!悪党風情がでしゃばるなwww」(超訳)といわれて正成は引き下がるのですが、もしここで朝廷の誰かが二人の仲立ちをしていたら、もうちょっとうまくいったのかもしれません。
まあ、そんなことができる人がいればそもそも尊氏と仲違いしてなかった気もしますが……。
戦略的撤退なのに「逃げた」と言われる冤罪
そして迎えた【湊川の戦い】。
義貞は場所を変えて再戦を挑んだ(そして負けた)にもかかわらず「お前が逃げたせいで正成が死んだんだろ!」という扱いを受けてしまいます。
ついに朝廷からもはしごを外されてしまった義貞以下新田一族は、仕方なく北陸方面へ落ち延びていきました。このあたりには倒幕の際協力してくれた親族もいたので、彼らを頼ろうとしたのかもしれません。
しかし、その他の家とうまく連携することができず、数の上でも不利だったためあえなく討死してしまいます。
矢を雨あられと浴び、これまでと覚悟して自ら喉を掻き切ったといわれています。
勇ましい最期です。
尊氏・義貞・正成の役者が揃った湊川の戦い!大逆転で北朝の時代へ
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太平記だと「犬死www」みたいな書き方されてますけど、何もそんな言い方しなくても……と思うのはワタクシだけでしょうか。
「天皇に仕えたにもかかわらず見捨てられ、身内に滅ぼされた」
この点に関しては源義経とほぼ同じですし、「歴史に残る大手柄があるのに、現代でやたらと評価が低い」というあたりは松平忠直にも似ていますね。
地元群馬県では『上毛かるた』の「れ」に採用されていたり、明治時代には正一位を与えられているなど公的には悪い扱いではありません。
しかし、いかんせん一般の人からの印象が悪すぎて(´;ω;`)
義経が大河になったんだから義貞もイイじゃんと思うんですけどね。
どなたか良い脚本か小説を書いてくだされば、もっとイメージが良くなる人なんじゃないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
朝日新聞社『朝日日本歴史人物事典』(→amazon)
新田義貞/wikipedia