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【比叡山延暦寺】
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武装解除を事前に3回も促した信長はむしろ優しい?
「信長+延暦寺=全山焼き討ち・老若男女皆殺し」
そんなイメージがあると思います。
が、義教や政元の手口を知ると、むしろ事前に三回も武装解除を勧めていた信長が優しく見えてきますね。
信長の比叡山攻めについては以前も取り上げているので、よろしければこちらもどうぞ。
信長の比叡山焼き討ち事件~数千人もの老若男女を虐殺大炎上させたのは盛り過ぎ?
続きを見る
信長の焼き討ちについては、
「京都からでも比叡山が焼かれるのが見えた」
という記録があることから、残虐なイメージがより際立っているのでしょう。
しかし、延暦寺と御所を中心とした市内って、むしろ「何かあったときに見えないほうがおかしい」距離なんですよね。
現代なら車で一時間もかかりませんし、直線距離なら10kmくらい。
しかも比叡山のほうが高い位置にあるので、延暦寺である程度火が出れば、京の街中から見えるのは当然という気もします。
おそらく義教のときも政元のときも見えていたでしょう。
皮肉なことに戊辰戦争では寛永寺が焼かれ
ともかくこの事件で徹底的にやられた延暦寺は、本来の役目である学問と信仰に立ち返ります。
建物については豊臣秀吉や徳川家康、そして江戸時代に入ってからは三代将軍・徳川家光によって再建。
幕府が江戸に置かれたことや、天海によって上野に「東叡山」を称する寛永寺ができたことによって、しばらくの間、歴史の表舞台から遠ざかります。
そのおかげで戊辰戦争でも焼かれずに済みました。
寛永寺は上野戦争でほとんど焼けてしまっているので、皮肉なものです。
昭和三十一年(1956年)、重要文化財だった建物が全焼するという災難に見舞われながらも、近年では他宗教(仏教・キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教・シーク教・儒教)とのサミットを行うなど、新たな役割を自認するようになりました。
また、平成六年(1994年)には「古都京都の文化財」として他の寺社などとまとめて世界遺産に認定され、文化的な存在感を強めています。
さすがにもう武装勢力化する可能性も必要性もないでしょう。
このまま最澄が思い描いていたであろう姿を保っていただきたいですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
延暦寺/wikipedia