ハムレット:
物事に吉凶なぞない、解釈次第よ。
『ハムレット』第二幕第二場
『三国志』の人物伝を記すとすれば、曹操は紛れもなくトップバッター候補ではあります。
歴史サイトのお約束として、このテーマにすればアクセスが稼げる。その程度のことはわかってはおります。
ただ、個人的に曹操だけは断じて書きたくありませんでした。
理由は、精神衛生上極めてよくない。健康に悪い。混沌の極みに突っ込み、本棚がややこしいことになると想像できたのです。
なぜ、わざわざ曹操のことを書かねばならないのか?
よりにもよって曹操。他でもない、曹操。
ただもう逃げられない。時間切れ。そう悟りました。
理由は、本稿そのものだと前置きしましょう。
注意点をまとめました。以下の注意点を踏まえた上で、お読みください。
・長い。ともかく長い。数日間かかってもよい方のみ、お進みください
・曹操の詩はじめ、翻訳が正確性よりも即興性重視ですので、引用するとあなたが恥を書く可能性があります。元の参考文献なり原文を当たってください
・時代背景や思想的な要素も入るため、脱線傾向があります。各自判断のうえ、飛ばし読みできる箇所はそうなさってください
・性的な記述があります。ご注意ください
・筆者の見解が入っておりますので、安易な引用は危険です、くれぐれもご注意ください。破ることで困るのは私ではなく、あなたになります
それでは本稿を開始します。
【TOP&文中イラスト・小久ヒロ】
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気候変動、人口減……曹操の生まれた時代
ジュリエット:
家名が何? 薔薇はどんな名前で呼ばれようと、同じように甘く香るのに
『ロミオとジュリエット』第二幕第二場
さっさと曹操の人生について語れ!
そう書かれることはわかっております。
ただし、彼の生まれた家庭環境、時代、価値観、土地。
そういうことを考慮せねば、どうしても迫れないものがあります。
魏の人物紹介第一弾でもあります。
彼の生きた時代について考えてゆきましょう。
曹操の人生に入る前に、中国の歴史について考えておきたいことがあります。
それは、世界史上屈指の人口減が発生するということです。
Wikipedia「人為的な要因による死者数ランキング」において、中国が占める割合はかなりのものです。
2位 太平天国の乱(19世紀・清)
3位 三国時代の争乱(2-3世紀・後漢から三国)
6位 明末清初の動乱(17世紀・明から清)
7位 回民蜂起(19世紀・清)
8位 安史の乱(8世紀・唐)
11位 国共内戦(20世紀・中華民国)
15位 黄巾の乱(2−3世紀・後漢)
これをもって、
「中国人は残酷で虐殺が好きなんだ!」
とみなす本もあるものですが、そういう単純な話でもありません。そのことは、以下の記事にざっとまとめました。
なぜ中国王朝では人類史に残る「大量死」が何度も起きてきたのか?
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前述のランキングにおいて、後漢末から三国時代は第3位。
こうなると、曹操はじめ誰が大虐殺をしたんだろう?と思うことでしょう。
曹操自身の戦歴には非合理的な虐殺も確かに存在します。そのことが、彼自身の人生に影を落としています。
ただし、彼一人でここまで激烈な人口減を招いたわけではありません。
戦争にせよ、虐殺にせよ、殺す人数には限界があります。
農作物ができない。食糧難。こうした社会システムの崩壊がなければ、ここまでの大打撃はありえないのです。
始皇帝による秦の統一。
始皇帝の生涯50年 呂不韋や趙姫との関係は?最新研究に基づくまとめ
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前漢崩壊を経て、社会システムが整えられ、人口も増大していった後漢末期。
中国最悪のペテン政治家は王莽か?前漢を滅ぼして「新」を建国→即終了の顛末
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それは社会システムが疲弊し、変革に直面した時代でもありました。
宦官の孫
曹操は、生まれた時から規格外でした。
英雄とは誕生伝説があるものです。
龍の子であるとか、天変地異が祝福するように起こったとか。
曹操はそういう奇跡から生まれたわけではなく、制度上のイレギュラーと言える存在でした。
彼は宦官・曹騰の孫であったのです。
宦官とは、去勢された男性でなければなりません。後宮を司る以上、そこにいる妃と過ちがないように去勢されたとされます。
それはあくまで一員です。
性行為ができないこと。そしてその結果、子孫を残せないこと。
これこそが宦官の宿命であるとされていました。
それなのに、曹騰には子孫がいる。
どういうことだ?
宦官の子孫とは、存在そのものが異常である。
そう見なされてしまうのです。
このことは、曹操自身、意識していた形跡はあります。
曹騰はなぜ、宦官でありながら子孫を残すという例外的措置を取られたのでしょうか。
それは彼自身の功績によるものです。
沛国・曹氏は、曹参の同族とされています。
劉邦につきしたがい、前漢二代目の相国にまでのぼりつめたあの人物です。この姓の重要性は、劉備を考えるうえでも重要となってきます。
ただし、後漢ともなるとごく平凡な農民の家であったようです。
曹騰の父・曹節は、温厚であったと評価されています。
あるとき、彼の隣人が自分の豚を紛失してしまい、曹家に逃げ込んだと思い込み、連れ去ってしまいました。
ところがこれは誤解で、豚はひょっこり戻ってきたのです。
隣人が勘違いだと気付いて曹家に謝りに行くと、曹節は笑顔で許したとか。
エピソードとして平凡ですが、確かに温厚ではあります。
そんな曹節は、子の一人である騰を宦官にしました。字が季興ですから、兄がいたことは確かでしょう。
男子の生まれ順は【伯仲叔季】で呼ばれるもの。『三国志』の男性は字で出生順がわかります。
一例として、孫権(字・仲謀)や司馬懿(字・仲達)は二男です。
いくら男子が複数いたからとて、我が子を去勢するとなれば、相応の覚悟はあったはずです。
そこまで経済的に恵まれていなかったと推察できます。
去勢手術は危険きわまりないものです。時代が下ると幼児の去勢を行う専門家すら存在しました。
乳幼児のうちに睾丸を潰す手法が、最も合理的と言えばそうなのです。
曹騰は、貧しい農家に兄のいる男子として生まれ、幼いうちに去勢をされて、宮中に送り込まれたのでしょう。
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宦官とは、ある意味去勢で出仕できる枠でもあります。
コネ、人材登用試験、後世では科挙を経過しないで済むわけでして、立身出世の裏口ではあるのです。
しかし、出世できる宦官はほんの一握り。
歴史に名を残した宦官とは、善悪正邪はともかくとして実力があったことは確かです。
曹騰は何代もの皇帝に仕えました。これだけでも彼の知性がわかります。
何もできなければ、せいぜい清掃係あたりで人生を終えていたことでしょう。
第6代・安帝の治世に出仕した曹騰は、鄧太后付きとなりました。
役職はボディガードである【中黄門】でした。そんな役目だけに、これは気力体力のある若手宦官のポスト。実力者の目にとまれば、出世の糸口となります。
とはいえ皇帝の母である太后は、先は短いものであり、ポスト鄧一族を狙う必要がありました。
鄧太妃の死後、この一族は没落します。
安帝が32という享年で崩御すると、少帝懿が擁立されたのです。
しかし、彼は一年も立たないうちに没してしまいます。
ここで宦官・孫程率いる一味が宮中に乱入し、不遇をかこっていた皇族・劉保を順帝として即位させたのです。
いかがでしょうか。
宦官がキングメーカーならぬエンペラーメーカーであった後漢の政治事情が見えてきます。
宦官とは、なかなか自発的に権力を握れないもの。後ろ盾あってのもの。これにのった孫程は【車騎将軍】にまでのぼりつめます。宦官が軍事担当者である将軍になることは、異常事態です。後漢の腐敗があらわれています。
宦官のバックアップあって即位できた皇帝は、彼らの権限を認め始めるのです。
曹騰もこうした流れにうまく乗ったわけです。
順帝のあと、あまりに幼い皇帝が続きます。
9代 沖帝(在位144ー145)
10代 質帝(在位145ー146)
この質帝は、幼いながらも宮中の腐敗を皮肉ったために、外戚・梁冀(りょうき)によって暗殺されてしまったのです。
十常侍や梁冀らに食い潰された後漢~なぜ宦官がはびこり政治が腐敗してしまうのか
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かくして、帝位が移り変わりました。
11代 桓帝(在位146ー168)
この梁冀と桓帝に、曹騰は取り入ったと思われます。
曹一族は出仕者が増え、順調な出世を遂げているのです。
梁冀は専横を嫌われ、宦官・単超とはかった桓帝によって処断されています。こうした政変の中、曹騰はうまく立ち回っていたのです。
曹操の父・曹嵩がなぜ、そしていつ養子になったのかは、わかりません。
はっきりしていること。
それは曹嵩の子・曹操が永寿元年(155年)に生まれたこと。
曹騰の人脈が広かったこと。
子孫を持てないはずの宦官に、家を保つルートが用意されたこと。
ここまで読んできて、曹騰に好印象を持てましたか?
出世を遂げたとはいえ、幼い帝を暗殺した外戚・梁冀に取り入った人物です。
孫程の政権掌握にも、関与していておかしくはありません。
政治的に活躍した宦官には、どうしても暗い側面がつきまとう宿命があります。
その運命を曹操は産まれながらに背負ってきました。
自分自身の罪ではない。それでも世間からは疎んじられる。
そんな属性の元に、彼は産まれているのです。
曹操の血縁関係者
さて、曹操の背景についてここまで長々と書いてきました。
曹操の人生をたどっていくと、あまりに合理的である考え方が見えてきます。
劉備にせよ、孫権にせよ、彼らの義兄弟や土地にある義理人情の世界を、彼は重要視していないように思えるのです。
これを彼の性質と言い切ることは、なかなかできません。
あとで触れますが、それに曹操にだって身を切られるほど辛い、心理的な打撃はあります。
曹操だって人間です。血もあれば涙もある。それはそうなのです。
ただ、背景的にそこが薄いとみなされる要素もあるのです。
それが血縁関係です。
曹操の父・曹嵩が養子となる前の家系は特定しにくいのです。ただ、傍証はあります。
・夏侯氏:夏侯惇、夏侯淵はじめ多数
・丁氏:曹操の丁夫人、丁沖(丁儀の父、曹丕によって滅せられる)
彼らは、血縁関係者が重用されております。
一族がらみでつきあいがあったと思われるのです。姻戚関係も確認できます。
ただ、血縁関係者だけでは政権は運営できません。
曹操は意識的に、宦官一族の御曹司ではない、もっと影響力のある人物になろうと奮闘していたと伝わってきます。
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