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週刊武春 軍師官兵衛レビュー 黒田家

黒田官兵衛59年の生涯をスッキリ解説【年表付き】大河では見えにくい史実の名将にリスペクト

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『軍師官兵衛』など存在しない――。

なんて言うと『イキナリ何だ?』と引かれるかもしれませんが、これがある意味正解でして。

日本に職業(官職)としての『軍師』が規定されたことはなく、今日(こんにち)、我々が言葉にしているのは江戸時代の軍学や軍記物などによって作られた“イメージ”なのです。

例えば、武田信玄の軍師として知られる山本勘助も、彼の華々しい活躍が記されている『甲陽軍鑑』に、そうとは明記されておりません。

しかし。
【軍師なんていなかったんだ……】
と落胆する必要もないでしょう。

今なおこの言葉が魅力的なのは、彼らが戦術に限らず、築城や内政、外交など、様々なジャンルで才能を発揮したからで。

その代表的存在が、織田信長豊臣秀吉徳川家康のもとで多才な活躍をした黒田官兵衛ではないでしょうか?

またの名は黒田孝高、あるいは黒田如水など、いくつかありますが、本稿では黒田官兵衛で統一。
激動の生涯を史実ベースで振り返ります。

果たして如何なる軍師像が浮かんでくるでしょうか……。

黒田官兵衛/wikipediaより引用

 

謎多き黒田氏の出自

まずは官兵衛の出自である、黒田氏についてたどってみましょう。

黒田氏の祖については主に2つの説がございまして。
少し堅苦しい話ですが、本編に入る前にお付き合いください。

◆佐々木黒田氏説
『黒田家譜』や『寛永諸家系図伝』等によりますと、黒田氏の出身は近江国。
賤ヶ岳山麓にある伊香郡黒田村となります(現在の滋賀県長浜市木之本町黒田)。

近江佐々木源氏の末裔というのが、黒田家の公式見解でして。
この佐々木氏というのは宇多源氏の一派である武家の名門で、他には京極氏や六角氏などがおります。

両家ともに近江と深い関わりがあることで知られておりますね。

家紋の黒田藤巴/photo by Mukai Wikipediaより引用

そしてもう一つの説がこちらです。

◆播磨黒田庄出自説
兵庫県西脇市の黒田庄町が出自という説。
この説によると、赤松氏の支族ということになります。

赤松氏は、村上源氏を祖とする一族で、こちらは鎌倉末期から播磨に勢力を伸ばしました。
他には別所氏や上月氏などが赤松氏から分かれたとされています。

いずれにせよ「名門の出なんだぞ」という主張が見て取れまですが、近い先祖で有名なのが「目薬売り」という話です。

それは官兵衛の祖父・黒田重隆(しげたか・ドラマでは竜雷太さん)でした。

 

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蓄財に長けた祖父・重隆、小寺氏の信任篤い父・職隆

重隆は、姫路で牢人生活を送りました。

経済的に困窮していたところで、夢のお告げに従って目薬を販売したところ、これが飛ぶように売れて財を成した――という筋書きです。

正直、この手の話は後世盛られた可能性が否定できません。
ただ、重隆に経済的センスがあり、蓄財をしたというのはおそらく間違いないのでしょう。

重隆の子であり、官兵衛の父である黒田職隆(もとたか・ドラマでは柴田恭兵さん)は心優しく、貧しい人を助けていたと伝わります。
その性格がどこまで真実であるかはさておき、小寺氏の信任を得ていたことは確かです。

職隆は主君の小寺氏から信用を得て、小寺姓の名乗りも許され、小寺則職(のりもと)から「職」の一文字を与えられました。

祖父→父と優秀な人物から官兵衛のような俊才が輩出された――そう考えてよさそうです。

 

官兵衛の若年期

官兵衛は、天文15年11月29日(1546年12月22日)に誕生しました。

母は播磨国国衆・明石正風の娘。
7才で読み書きを習い始め、14才の歳に母を亡くし、迎えた永禄5年(1562年)、初陣の機会がやってきました。

相手は、小寺氏と対立していた浦上宗景です。
官兵衛17才のときでした。

初陣を果たした前後の官兵衛は、連歌や和歌を好んでいました。
この道を究めたいとすら考えていましたが、近隣の僧が諫めます。

「今は乱世です。風雅の道よりも、兵書を学び、弓馬の道をおさめるべきです」
こう言われた官兵衛は、今は歌は必要じゃないなと思い直します。

ただし、官兵衛が風雅の道を諦めたわけではありません。

後年落ち着くと連歌を再開。
細川幽斎最上義光らとともに、当時の武将としてはトップクラスの実力を誇る名手とされています。
センスと教養があったのですね。

実際、官兵衛の叔父・小寺休夢は、秀吉のお伽衆にまでなった人物です。
当意即妙の歌を詠む、そんな文才は、環境や血筋の影響もあったのでしょう。

【関連記事】戦国武将も愛した連歌が実はメッチャ面白い!

永禄7年(1564年)、官兵衛にトラウマ級の事件が起きました。

室津の浦上清宗が祝言において赤松政秀に攻め殺され、嫁いでいた官兵衛の妹もろとも殺害された、というものです。

フィクションでは欠かせない騒動ではありますが、実は史実かどうかは不明。
3人いたと伝わる官兵衛の妹は、いずれも有力者に嫁ぎ、平穏に生きていたと伝わります。

一方、自身の結婚は、永禄11年(1568年)前後とされています。

永禄11年(1568年)に息子・松寿丸(のちの黒田長政)が誕生したことは確かですが、結婚の時期がいつなのか、というのは記録がないのです。
息子誕生のタイミングから逆算しているわけですね。

官兵衛はこのとき23才、妻の櫛橋光(くしはし てる・後に幸圓)は16才とされています。
(ドラマでは中谷美紀さん)は体格がよく、賢く、大変優れた女性でした。

 

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小寺氏、織田信長に臣従する

官兵衛の運命が一変するキッカケは、畿内から西へ勢力を伸ばし始めた織田信長でした。

より正確に言うと現地へやってきたのは羽柴秀吉ですね。

イラスト/富永商太

当時の播磨はかなり混乱しており、まさしく群雄割拠という状態。
かつて一大勢力であった赤松氏が衰退すると、かわって様々な勢力が台頭します。

播磨国
・御着城主:小寺氏
・三木城主:別所氏
・龍野城主:龍野赤松氏

備前国
・宇喜多氏(宇喜多直家~宇喜多秀家
・浦上氏

そんな播磨に侵攻を模索していたのが織田信長であり、小寺氏は織田勢との戦いで敗退。
官兵衛は、天下の大名でこれから台頭するのは織田信長と毛利輝元なれど、信長につくべきだと主君・小寺に進言します。

信長の元に、小寺の使者として赴いた官兵衛はすっかり相手から気に入られ、秀吉を播磨攻略に差し向けることにしました。

そしてその支援者として官兵衛を指名した、というのですが、このあたりの話はいささか出来過ぎの感がありますね。
後世の創作も混ざっているかもしれません。

天正5年(1577年)、毛利氏と小寺氏の間で英賀合戦が勃発。
構図としては、信長に臣従した小寺氏による代理戦争ともいえるもので、官兵衛も武功を立てたことが確認できます。

そして当時はまだ羽柴だった秀吉が播磨に入ると、小寺氏よりも官兵衛を重用するようになりました。

これを機に【信長&秀吉と官兵衛】の関係は強固なものとなり、現在に至るまでのイメージである【秀吉の元で奮闘する知将・黒田官兵衛】としての姿が出来上がりました。

同年、官兵衛は「上月城の戦い」でも戦果をあげ、秀吉の播磨攻略で存在感を見せるようになるのです。

 

村重の謀叛と幽閉

秀吉の右腕として、順調に戦功を重ねていく官兵衛。
しかし、おそるべき陥穽が彼を待ち受けておりました。

天正6年(1578年)、伊丹・有岡城主である荒木村重が謀叛を起こしたのです。

荒木村重の謀反(漫画:富永商太)

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信長は性格的に、謀叛を起こしたら即座に討伐する魔王ではありません。
一応説得を試みます。

そこで織田側から何度かの説得が試みられ、その都度失敗し、ついに選ばれたのが官兵衛でした。

交渉力に一目置かれていたこともありますが、もう一つ事情があります。

播磨で裏切りの連鎖とでもいうべき事態が発生してまして。
官兵衛の主君・小寺氏までもが、毛利氏に誘われ、織田への謀叛を決意していたのでした。

事態を憂慮した官兵衛は御着城に向かい、主君の説得に乗り出します。

そこで小寺政職から出された条件が次のものでした。

【村重が謀叛を撤回するならば、私も毛利氏の誘いには応じない】

一見、説得力のある話です。
そもそも村重が織田を裏切ったのも、石山本願寺の攻略が遅々として進まず、毛利を頼ったほうが得だと考えたから――という見方があり、小寺としても、このままでは村重と毛利に挟まれ危険な状況。
ゆえに村重の説得は、多くの者にとって死活問題でした。

しかし、小寺政職は策を弄するのです。
官兵衛に説得を命じる一方、村重に使者を出し、官兵衛の暗殺を依頼していたのでした。

これでは、罠に飛び込んだ小鳥も同然。
官兵衛は敢えなく有岡城に幽閉されてしまいます。

もしかしたら小寺政職は、主君をさしおいて信長や秀吉と接近する官兵衛が疎ましかったのかもしれません。

留守を守る黒田家は団結し、この荒波を乗り切ろうとします。

一方、信長は、官兵衛が裏切ったと思い、激怒。
人質となった官兵衛の子・松寿丸(後の黒田長政)殺害を命じます。

竹中半兵衛は反対しました。
が、聞き入れない信長。

仕方なく半兵衛は松寿丸を匿うことにします。
もし発覚したらただではすまない、命がけの行動でした。

残念ながら半兵衛は、天正7年(1579年)に亡くなり、幽閉中の官兵衛との再会はかないません。




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天正7年(1579年)10月、有岡城が攻め落とされた際、やっと官兵衛は一年あまりを経て解放されます。
頭髪は抜け落ち、膝の関節が曲がり、脚は一生回復することはありませんでした。

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