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【日本人と漢詩】
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日本人にとって漢詩はマッチョで意識が高いモノ
話を【漢詩】に戻します。
平安時代が終わり、武士の世となると、中国文学の需要も変わってゆきました。
平安貴族たちが【大学寮】で学んだ漢文は、【遣唐使】時代からのカリキュラムであり、内容は古びたものです。
一方、武士の世となると、中国大陸で学んできた最新事情のエキスパートとして、禅僧が登場。
【抹茶】を日本に根付かせた栄西はじめ、彼らが中国からの文化を伝える役割を果たしています。
平安末期、多くの坂東武者にとって和歌は役に立たない、意味のわからないものでした。
それが文明に触れ、和歌集に自作が掲載されることを待ち望むようになります。
さらにステップアップして、漢詩を詠む武士たちも登場してきます。
そもそも漢詩こそ、武士のメンタリティには合っているともいえます。
【漢詩】は日本では、独自の受容がなされたのです。
漢詩:意識が高いもの、政治への志を詠んでこそ。固い
和歌:ちょっとした心の琴線や、恋心を詠む柔らかいもの
日本史ではしばしば「漢詩は恋愛を詠むものではない」という説明があります。
これはあくまで日本史に限った話で、中国では切ない思い、胸のトキメキ、イベントではしゃいだこと、ペットロスなどなど、さまざまなジャンルが詠まれています。
あくまで日本人が「漢詩はマッチョで意識が高いぞ!」と言い張っているだけです。
例えば戦国武将でも、和歌を読んでも全くおかしくはありません。
【連歌会】は重要な交流の場でした。
しかし、和歌で「俺は絶対、天下をとってやる!」「戦い血に塗れた日々が懐かしいぜ」と詠むのはちょっとジャンルが違う。そもそもが短すぎる。
そんなわけで、戦場での気合いといった気持ちは敢えて漢詩で詠むようになりました。
伊達政宗の「酔余口号」は有名です。
馬上少年過
世平白髪多
残躯天所赦
不楽是如何
馬上少年過ぐ
世平らかにして白髪多し
残躯天の赦(ゆる)す所
楽しまずして是を如何(いかん)せん
思えば若い歳月は、馬の上で過ぎて行った
今は天下泰平の世となり、すっかり白髪が多くなった
この老いた身を天がいつまで生きさせてくれるのか?
そう思えば、楽しむしかないだろう
伊達政宗は漢籍教養にあふれた人物です。
「独眼竜」とは、唐末の名称・李克用由来の通称とされます。
実際に政宗がそう呼ばれていたかはともかく、李克用のトレードマークは「鴉軍」と呼ばれた黒い甲冑軍団であり、政宗も黒い甲冑を愛用しました。
仙台という地名にしても漢籍由来です。中国を代表する作家・魯迅が留学した土地であり、そこで恩師である藤野厳九郎と運命的な出会いをはたした場所でもあります。
日中関係において何かと縁のある場所が仙台なのです。
あるいは武田信玄には、明太祖である朱元璋を“パクった”作品があります。
言葉は悪いとはいえ、実際そうとしか思えないのが一目瞭然です。
明太祖・朱元璋「無題」
殺尽江南百万兵
腰間宝劍血猶腥
山僧不知英雄漢
只顧曉曉問姓名
殺し尽くす 江南百万の兵
腰間の宝剣 血猶お腥(ちなまぐさ)し
山僧は知らず 英雄漢
只だ顧み曉曉として姓名を問う
江南の百万の兵を皆殺しにしてやった
腰に佩びた宝剣は、いまだに血なまぐさい
それなのに山にいる僧侶と来たら英雄を知らんのか、
丁寧に名前を聞いてきおった
武田信玄「偶作」
鏖殺江南十万兵
腰間一劍血猶腥
豎僧不識山川主
向我慇懃問姓名
鏖殺(おうさつ)す 江南十万の兵
腰間の一剣 血猶お腥(ちなまぐさ)し
豎僧(じゅそう)は識(し)らず 山川の主
我に向かって慇懃(いんぎん)に姓名を問う
江南の十万の兵を殺し尽くしてやった
腰に佩びた剣は、いまだに血なまぐさい
それなのに寺の小僧ときたら、
私のことを知らないのか、丁寧に名前を聞いてくるとは
こうして信玄が漢籍を読むうちに、『孫子』がスッキリと頭に入り、無双の強さを手に入れていった。
そう考えると、【漢詩】を熱心に取り入れる心意気はメリットも多い。
教養は新たな時代を迎えていたのです。
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ナポレオンもイオマンテも漢詩で詠まれる江戸時代
江戸時代になっても、日本人は独自の漢詩を読み続けます。
戦国武将の戦いぶりを詠むとなれば、やはりそこは【漢詩】となります。
頼山陽「川中島」
鞭声粛粛夜渡河
曉見千兵擁大牙
遺恨十年一剣磨
流星光底逸長蛇
鞭声粛粛 夜河を過る
曉に見る千兵の 大牙を擁するを
遺恨なり十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す
馬に当てる鞭の音すら立てぬようにし、謙信は、夜河を渡った
暁の中、信玄は大軍を見て驚く
遺恨十年、この時を待ち、剣を磨いてきたぞ!
流星の光芒で切りつけたというのに、あの怨敵を逃すとは無念
川中島の戦いにおける「謙信と信玄の一騎討ち」は、こうしたフィクションにより広まってゆきました。
こんな文を読んだら、頭の中には英雄が浮かんできてしまう――そんな風にうっとりしてきたのです。
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中国の山河でもなければ、英雄でもなく、日本の景色を前にして戦う日本人の英雄たち。
こうなるともはや日本独自のジャンルとしてもよいのではないでしょうか。
頼山陽はナポレオンの生涯まで【漢詩】である「仏王郎歌」に詠み、それもあってかナポレオンブームまで到来していて、もう何でもありの状態です。
幕末の幕臣である栗本鋤雲は、樺太アイヌからイオマンテに招かれた際、感銘を受け漢詩にしました。
栗本は清朝の外交官とも漢詩を交えた交流を楽しんでおり、外交手段としての漢詩活用例といえます。
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独自の進化を遂げた日本の【漢詩】――唐から教師を招いていた時代を考えると、思えば遠くへ来たものです。
では、そんな日本人の【漢詩】を、ネイティブはどう思ったのか?
まず、驚かれるのは間違いありません。
「スゴーイ! どうやって学んだのですか?」
社交辞令としてはこうなりますが、いざ作品の評価となると厳しい。
越前守となった藤原為時も宋人に自作を披露したところ、どうにも軽薄でいまひとつと思われたようです。
江戸時代となると、長崎の唐人屋敷に自作を携えた文人が押しかけ、清人たちに添削してもらいました。
彼らの感想は、くだけて書けばこんなところです。
「テーマがちょっとほのぼの系に寄りすぎていますね。もっと高尚なもののほうがベターです」
「韻の踏み方がいまひとつかな」
「全体的に古い。なぜ、日本人の漢詩って、唐代あたりで止まっているんだろう?」
前述の通り、変化してゆく発音についていくことは難しい。
しかも日本の漢詩は、形式からして唐代あたりでトレンドが止まっていて、宋代に大隆盛した【詞】のような流行が取り入れられていません。
結果、素直に添削を受けた日本人もいれば、そうではない人もいました。
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