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【『どうする家康』感想あらすじレビュー第24回「築山へ集え!」】
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ロシアの内乱を見てください。
今のところ少しは落ち着いたように見えるが、現実はどうなのか、この先どうなってしまうのか。
軍事力を持つ、持たない――そのリスクは古今東西あります。
なのに本作では、まるで子どもが持つおもちゃの兵隊のように扱っている。
一体どこまで幼稚なのか。砂遊びがしたいなら、大河でなくてもよいでしょう。小説投稿サイトに架空戦記でも投稿すれば良いと思います。
老子に「兵は不祥の器」とあります。
武力があるとどうしたって歯止めがきかない。だからといって、乱世で武装解除するわけにもいかない。まず天下を平定し、人心を和らげ、武装解除させる。
そういうプロセスもなく、いきなり妄想じみたことをして解決するわけがありません。
どうする「戦い続けて死にたい」
瀬名が発案した、妄想だらけの空想同盟は、結局、虚な目をした勝頼が全部ぶちまけることにしました。
男性原理を悪い方向に使っていますね。
「男は殴り合ってこそじゃん!」
そういうノリであるなら、本作の責任者が本気で謝罪して欲しい。
ゴニョゴニョ逃げない! そういう正々堂々とした姿を私は切望します。
どうする無責任
武田勝頼が悪いことにしたい――それはわかりましたが、そもそも、こんな無謀で非現実的な策を放置した徳川家康も悪いでしょう。
将たる者は責任を伴います。
家康といい、瀬名といい、キョトンとした顔で「知らなかったんですぅ」「悪気はなかったんだもん」と言い張れば免罪されると考えているようだ。
が、そんなわけないでしょう。
戦国時代のみならず、現代社会だって甘すぎて通じませんよ。お子様じゃないんだから。無知無責任と忖度にまみれた世界観でしか通じません。
このだらけきった幼稚な主人公たちと、本作の制作スタッフの顔が重なってくる。
どんな作品になろうと、誰も責任を取る必要がないから、こんな弛緩しきった状況になっているのでしょう。
どうするイベントがない大河
今回は、ほとんどスタジオ撮影で妄想を述べるばかりで終わりましたね。
本作については見えてきたものがあります。
「十年以内の戦国大河で描いたイベントは、すっ飛ばす」
推察ではあるのですが、作り手は『真田丸』『おんな城主 直虎』『麒麟がくる』は勉強として見たのでしょう。
そして合戦や謀略がつまんねーwww となった。
『麒麟がくる』の漢籍なんてどうでもいい、むしろ嫌い。
漢文なんて授業でいらねーwww と思っていそう。
「そういうジジババと陰キャだけが面白がる場面いらなくね? 俺らがおもしれーと思う話だけでいいじゃんw」
「確かにそうか……それなら予算も圧縮できるかも!」
ということで、金ヶ崎すら「なんやかんや」で済ませた。
そうなると以下のようなイベントもカットの嵐でしょう。
・本能寺の変
・伊賀越え
・天正壬午の乱
・大坂の陣
関ヶ原は、近年やってないからこそ、やる。
こうなると真田昌幸はどうするのか?
なんか悪そうなギラつき顔をしつつ、昼間から女中といちゃついたり、遺体を蹴り飛ばしたりする。
そしてやたらと「戦国の怪物だあ!」と周囲がアタフタ騒ぐ。
そういう“謎の存在”として済ませるのでは?
真田幸村も出てきた瞬間に消えそうです。
そのぶん淀の方の最期をねっとりと描きそうで……このドラマは美女の惨殺が好きですからね。
だとすれば『鎌倉殿の13人』の上総広常が上書きされる心配もないかな。
◆<どうする家康>制作統括・磯智明CP「家康の成長が試される、新たなフェーズに」三方ヶ原の戦いなど第2章に突入(→link)
なんせ上記の記事にもありますように、
「これまで大河で描いたことがない圧倒的なスケール感で描く」
と仰ってましたので。
金ヶ崎の戦い、姉川の合戦、そして三方ヶ原の戦いは、これまで大河で描いたことがない圧倒的なスケール感で家康と信玄の直接対決を描きます。
その後も大賀弥四郎事件、長篠設楽原の戦い、築山事件、武田討伐、本能寺の変、伊賀越えと歴史イベントが目白押し。戦国時代のど真ん中を家康とその家臣たちは駆け抜けていきます。
一体このドラマのどこに圧倒的なスケール感があったのか?
「言うだけならタダ」とばかりに視聴者を煽るだけ煽って、ナレーションで終わったり、CG馬の集団で視聴者をガッカリさせたり。
事前に、壮大な触れ込みを平気で出す作品をもはや信じることなどできないでしょう。
本作は、つくづく少年漫画雑誌のラブコメ枠感覚だと思ってしまいます。
バトル漫画はそういうのが得意な作家に任せて、俺らはパンチラとラッキースケベだけでいいんだよ! うるせー奴らには、もっと別の角度からパンチラを見せてやんよwww
こういう頑健なメンタリティだからこそ、今年の大河となっているのでしょう。
どうするジャンヌ・ダルク
なんでもこの瀬名はジャンヌ・ダルクを意識しているとか。どこに共通点があるのでしょうか。
・ジャンヌは農民、前線に立っている
・ジャンヌはいきなり「武装解除!」とは言わない
・ジャンヌの場合、イギリスが撤退すれば終わる。内戦が悪化している戦国時代の日本とはまるで違う
それでもなぜジャンヌ・ダルクだったのか?
というと単純にミーハーだからでしょう。
『八重の桜』の八重がジャンヌ・ダルクと言われるのはまだ理解できます。
・八重は前線に立っている
・八重はいきなり「武装解除したら終わるべした!」とは言わない
・八重の場合、西軍が撤退すれば終わる
瀬名の場合は、ただの妄想。
ではその妄想はどこから来るのか?考えてみましょう。
どうする「戦争を知らない子どもたち」の成れの果て
本作の戦争・軍事描写は、どうしてこうも薄っぺらいのか?
『麒麟がくる』では、何気ない場面でも、戦争で不自由になった人々が物乞いになっている姿が映っていました。
そういう社会に残る傷が、生々しい戦争の傷跡を映し出すものです。
散々文句を言われていた駒だって、戦災孤児です。
あの駒を“ファンタジー”だのなんだの報道したメディアは一体何だったのか。
ヌクヌクと生きてきた“戦争を知らない子どもたち”の成れの果てが、面倒くさいし見たくないと罵倒したくなる“ウザい存在”だの“ノイズ”だったんですかね。
ドラマとその報道に、どれだけ“戦争を知らない子どもたち”の成れの果てが溢れているか。
昨年の朝ドラ『ちむどんどん』の不評理由について、識者は「本土の視聴者は沖縄戦なんてどうでもいいから」と解説していました。
そんな沖縄人の忘れられない傷よりも、本土住民がキュンキュンしたい恋バナをやれってことでしょう。
どこまで傲慢なのか。こういう軽薄な傲慢さを信じ込んだ手法を信じた大河が、この惨状なのでしょう。
戦争を知らず、苦悩に耳を傾けないと、とてつもなく酷いことが待ち受けています。
◆ちむどんどんは本当に駄作だったのか 識者が考える「炎上の理由」と「作品の意義」(→link)
例えば、自分のことに置き換えて考えてみると、夏休み中の8月に親の実家に帰省して、終戦記念日が近いからと祖父から悲惨な従軍経験の話を聞いて、「大変な時代だったんだな」と戦時中に思いを馳せても、その後、毎日そのことばかり考えて人生を歩んでいくことはなかなか出来ません。
ただ、時々、聞いた話をフッと思い出すようになったり、それをきっかけに戦争について学ぼうと思うようになったりすることはありえます。
だから私は、「ちむどんどん」は何週にもわたって沖縄戦を描く必要はなかったのかなと思います。
こういうことを言いながら駒を叩く。「良識的な人間は、あんなヒジョーシキで人の痛みがわからない連中が出てくるドラマなんて、受け付けない」と来る。
実に辛い……。駒叩きでドヤ顔する風潮は本当に見苦しいものでした。
戦争体験者の体験談を聞く行事で、後ろの方に座ってヘラヘラ笑いながら友達とふざけ、終わったあと「あんなババアの話聞いてらんねえしw」とかイキる青少年っていますよね。
自分が無知で不真面目なことをくだらない武勇伝であるかのように語る連中。
そのくせ「ナチスもよいことをしたんだよなァー、歴史に詳しい俺はわかってるぜーww」とかドヤ顔で言い出し、SNSで研究者などに絡む。
そういうイキリ散らした連中の、幼稚なメンタリティが痛々しいのと同じです。
どうする再評価
『八重の桜』についてもう少し。
あの作品は今、再評価が進んでいます。
長谷川博己さんに小栗旬さんという、ここ十年で大河主演を二人も出した作品となっています。
『麒麟がくる』も再評価が進んでいます。
少しでも褒めると、やたらとすっとんできて駒を罵倒する人はいますが、現実に評価は高い。
こうした良作のみならず、『江 姫たちの戦国』や『花燃ゆ』ですら、再評価されているようです。
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