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【『どうする家康』感想あらすじレビュー第46回「大坂の陣」】
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どうする「ランキング」とWeb記事の信頼性
『どうする家康』は、結果的にWebメディアの問題点を露にし、信頼性も下落させることにも繋がるのではありませんか?
ノベライズ担当者が毎週露骨に持ち上げている。
ジャニーズと関係の深いスポーツ新聞系メディアの提灯記事も激しい。
そしてランキング系記事の信頼性低下。
組織票が使えるランキングは当てになりません。
『どうする家康』は視聴率が低迷している。関連書籍も少ない。NHKの番宣は激しいものの、民放は追随しようとしない。
『大奥』は、便乗だろうと思えるドラマも制作されるというのに、この家康のしらけぶりはどうしたことでしょうか?
Webメディアもインプレッションは稼ぎにくいと思います。
同様の現象は『青天を衝け』でもありました。
特定俳優のファンダムが熱いだけで、歴史好きはそこまで反応していないことが、データから浮かんできます。
そういう役者のファンは歴史に興味はない。
来年以降の大河など見向きもしないでしょう。
そもそも、こういうランキング記事で強引に『どうする家康』を捩じ込まれるところがかえって胡散臭い。
百戦百勝は善の善なる者に非ず。視聴率ワースト2位なのにランキングで上位に入り込むのは、組織票ありきと自白しているようなものでは?
先憂後楽:来年以降の嵐もとい荒らしに備えておこう
一部の熱狂に頼った結果、今後、最悪のケースになることもありえます。
前作の熱狂的なファンが、次作を貶める。あるいは粘着質のアンチが、次作を白々しいまでに褒めちぎる。
そういう現象が大河と朝ドラは起こりやすいように感じます。
自分の頭で考えず、ただ周りの空気、ファンダムのルールに流されていく。
褒めるなり、貶したりするだけで、いいねがもらえる。そうすると脳内で何かがドクドクと出てきて、気づいたらやめられなくなる。
大河ドラマの場合は『平清盛』、『八重の桜』、『いだてん』と『麒麟がくる』でそんな現象を見かけました。
2012年から2013年、2019年から2020年の大河ファンダムは序盤で荒れました。第一話の時点でアンチがつき、SNS投稿を繰り返していたものです。
そうした過去を踏まえると、来年の序盤も相当たちの悪いアンチが生まれるかもしれません。
朝ドラ発の「反省会」もおなじみ。はなから反省会ありきで来年は荒れるでしょう。
そこから距離を置くことも大事ですね。
“推し活”はよいことなのだろうか?
推し活が今、当然のことのようになっています。
誰しも推しはあってよいですし、そもそも本人の自由です。とはいえ、行き過ぎは警戒した方がよいのでは?
金を落とすことが推し活ならば、資本主義に利用されているとも思えます。
なんでも肯定だけするというのも、結局のところは一歩まちがえれば田野大輔先生の『ファシズムの教室』のようになりかねない。
もうすぐ2023年も終わります。
ジャニーズ、歌舞伎、宝塚と、今年は「推し活無罪」とは言い切れぬ出来事が次から次へと起こりました。
よりにもよってその推し活ブームに、なぜ大河ドラマまで巻き込まれてしまったのか。虚しくなってきます。
推し活は、一歩間違えれば大変なことになります。
今だけよければよい。自分たちだけよければよい。学ばずとも、金を落とすだけでよい。そういう刹那的なことでよいのでしょうか。
道は一つだけでなく、例えば諸葛亮の推し活ならば、『出師表』を読むとか、書写したって良いはず。
歴史ファンは元来そういうものだった気もします。
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学ぶにあらざれば以て才を広むるなく、志あるにあらざれば以て学を成すなし
学ぶにあらざれば以て才を広むるなく、志あるにあらざれば以て学を成すなし。諸葛亮『誡子書』
学ぶことで才能は開かれるのです。その志がなければ、学問が完成することはありません。
脚本家のインタビューがどっと出てきました。
◆NHK大河「どうする家康」脚本・古沢良太氏「大きな挑戦でしたが、よやりきったなと」(→link)
大きな挑戦だのなんだの、キレイな言葉で飾られているものの、この方は「武士が何か?」ということすらじっくり思考されなかったのだな、と感じます。
先日、このドラマの過ちにあらためて気づきました。
ワンパターンでしつこい「覇道と王道」論争です。
このドラマを見ていると、家康は王道を掲げた「王者」になるように思えます。そう誘導していますよね。
しかし、彼はどう考えても「覇者」です。
それが武士では?
武力で敵を制圧しておきながら、どうして「覇者」でないのか。
征夷大将軍とは、夷を征する将軍という意味です。天皇という徳で世を治める王者から、覇者としての位を授かっているという名目です。
『麒麟がくる』では、織田信秀が信長に「天皇が一番えらい、次はそれを守る武士だ」と教えました。
その通りでしょう。実際に信秀がそう言ったかどうかではない。認識として理が通っている。
『鎌倉殿の13人』では、後鳥羽院は三種の神器が揃わぬまま即位した天皇でした。
剣が沈んだというのであれば、征夷大将軍である源実朝を剣に見立てればよいと後鳥羽院は考えているという設定です。
ところが実朝が横死し、北条義時はおとなしく鞘におさまっている剣にはならない。それが最終盤の展開です。
そしてドラマ10『大奥』。
将軍後見職となった一橋慶喜は、天皇の御機嫌取りのために上洛せよと、将軍である徳川家茂をせっつきます。
水戸学を身につけた徳川慶喜の論拠は、「覇者」として「王者」を守るべきだということになる。
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このように、まっとうなドラマと日本史の認識では、武士は「覇道」を歩むものであり、その頂点である征夷大将軍は「覇者」となります。
「王道」と「覇道」の対比は、中国ならば通じる話ではありませんか?
文官上位も崩壊し、武士が政治を行う日本でそれを適用するのはおかしいのでは?
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どうも本作を見ていると、
「王道」はいい子ちゃん、学級委員長の発想
「覇道」はワル、ヤンキーの発想!
という程度で描いている気がしてなりません。
そんな付け焼き刃でプロットを組み立てたから、何か危ういものを踏み抜いた。
要するに、この作品は「王道」の象徴たる天皇の存在をまともに把握していないということです。
本作と同じ磯プロデューサーが手がけた『平清盛』も不敬がらみで揉めました。
今どき不敬だのなんだのと言い出す理論に乗りたくありませんが、なぜこうも悲惨な過ちを繰り返すのか……と呆れてしまいます。
まるで劉禅みてえなドラマだな
『パリピ孔明』のオーナー小林なら、本作のことをそう評価するのではないでしょうか。
「王道」「覇道」の話って、『鎌倉殿の13人』が渡したバトンを落とすことでもありました。
あの作品の最終回では、家康が『吾妻鏡』を読んでいます。
源頼朝の「覇業」を前例として東国武家政権を作る狙いをふまえれば、秀逸な展開。
それなのに本作はせっかくのパスを活かせない。
そして『貞観政要』です。
英雄タイプということならば、「守成」と「創業」という『貞観政要』に出てくる分類もできた。
『貞観政要』は『鎌倉殿の13人』でも言及されていますし、今週出てきた林羅山の師匠である藤原惺窩だって、家康相手に講義しています。
そんな重要なこともこのドラマは活かせない。
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『三国志』の孫策は、死ぬ間際、弟の孫権に言います。戦うことならば自分の方が秀でているが、勢力を養っていくのであれば、弟のお前の方が向いている。
それこそオーナー小林のような歴史オタならば、英雄のタイプ分けなんて色々思い浮かぶ。
本作には、そういう蓄積がないから、悲惨な状況に陥っているのでしょう。
劉備という偉大な父親から何も引き継げない、劉禅みてえなドラマだぜ。
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