青天を衝け感想あらすじ

青天を衝け第2回 感想あらすじレビュー「栄一、踊る」

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悪代官とは?

今週は絵に描いたような悪代官が出てきました。

時代劇のこういう雑な描写をアタマから信用するのはワンクッション置いたほうがよいと思います。

明治維新以降、徳川政権の歪さはとりわけ強調されます。

社会批判はよいものですし、江戸時代も後期になれば確かに社会システムの欠陥は出てくる。

例えば映画『殿、利息でござる!』をご覧になるとわかります。

人口増、経済規模の変化、飢饉……そういう要素があればどうしたって社会システムには変革が必要となる。

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そこを踏まえても、家康をナビゲータにするのは悪趣味かつ悪手の極みだと思います。

鎖国は家康の閉鎖性や保守性のあらわれだという論は現在でも根強いもので、あれは薩長政権のプロパガンダの影響もあります。

家康はウィリアム・アダムスを受け入れたほど開明的な人物です。

イギリス側が思ったほど儲からないと打ち切った諸事情もあり、家康を徳川政権の象徴と誤誘導することは有害です。

Eテレでリカバリして欲しいところですね。

代官について読みやすい参考文献を挙げますと

山本博文『悪代官はじつは正義の味方だった 時代劇が描かなかった代官たちの実像』(→amazon

があります。

明治以降の時代劇で、なぜ悪代官が定番になったのか?

その理由は少々複雑で、ストレートに当時の政府を批判できないとなると、

「いいえ、実在の人物とは関係ありません。これは江戸時代の話です」

と言い抜けする一面がありました。

明治時代は政と財の汚職が極まった時代ゆえに、そういう息抜きでもしないとやってられなかったんですね。

このあたりは、三好徹著『政・財 腐蝕の100年』(→amazon)をお勧めします。

あるいは一坂太郎著『幕末時代劇「主役」たちの真実 ヒーローはこうやって作られた!』(→amazon)も読み応えありますよ。

◆【書評】一坂太郎『幕末時代劇、「主役」たちの真実 ヒーローはこうやって作られた!』(→link

 


これが幕末の漢籍に詳しい少年なのか?

本作を見ていて何がつらいか?

それは栄一が知性的に見えないところです。

全体的に見て、甘い。

悪代官のいる場所にいて疑問を口に出すとか。勝手に獅子舞を持ち出すとか。セキュリティ意識はどうなっているのでしょうか。

このあたり、身分制度を破り、なんとか主人公の動機付けに持っていく描写は『八重の桜』が圧倒的にうまい。八重はおてんばで突拍子もないようで、最低限の身分制度はふまえていました。

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それに対し、『青天を衝け』の栄一はタイムスリップした現代人のようです。

井戸に向かって叫ぶ。

胸を抑えて考え込む。

演出のセンスが古くて驚きました。

なにより今回の「義を見てせざるは勇無きなりだ!」ですが……。

この言葉と対になる前段はこうです。

「其の鬼(き)に非ずして之を祭るは、諂(へつら)うなり」

効果があるかわからない、そんな淫祠邪教(いんしじゃきょう・オカルトやカルト信仰)を漫然と祭ることは、ただ世間の空気に迎合するということになる。

そんな戒めがあるのです。

「あくりょうたいさん! ごこくほうじょう!」

テレビ画面に字幕を表示していると、ひらがなで、そう繰り返すから余計に辛い。

「義を見て」という言葉を持ち出すなら【本当にその祭りは効果があるのか?】という方向へつっこむならまだわかるのです。

しかし、決してそうではない。「みんなが楽しいのが一番だから祭りをする!」って、ただの思考停止であり、人気取り、大衆迎合の典型ではないですか。

浮いた祭りの費用を用いて、病人や老人の世話をするとか。そういう誘導の方が、栄一の思考回路に漢籍教養があるとわかってよいものです。

要は、子どもが字面だけ見てあやまった解釈をしただけ。『麒麟がくる』ですと斎藤高政程度の読解力かと推察できます。

『麒麟がくる』と比較してみましょう。

【効果があるかわからん仏像はぶち壊すぞ!】

織田信長は、そういう嫌な合“理”主義を敢行していた。

【余った金で、貧しい人を救う施設を作ろう!】

足利義昭は、そういう“情”に訴える政治を目指していた。

あのドラマは根底に漢籍教養があり、それを行動原理にまで適用していたとわかるのです。アリバイ的に漢籍引用しているドラマとはそこが違った。

当然ながら本来の渋沢栄一はその教養を備えているはず……というか『論語と算盤』(→amazon)の筆者です。今回のやりとりはあまりにお粗末だったのではないでしょうか。

 


ブロッコリーとチョコレートと脳

漢籍の話はさておき、現代の知見から『青天を衝け』を見ておきますと……。

大声で道が遠いと言う栄一。

繁忙期に寝坊する栄一。

人の見ている前でゴロ寝する慶喜。

いいんです、これが令和の少年ならば。

しかし、時代設定が幕末な上に、もう片方は御三家の子であり後の将軍です。

ブロッコリー(ニンジン等でも可)とチョコレート(ポテトチップス等でも可)があったとします。

若い者ほど、野菜でなくお菓子をもぐもぐします。

自制心を司る脳の発達が追いつかないから当然。

子どもに対して「あれをするな、これもするな」と躾をするのは、そういうことを踏まえれば理にかなっています。

しかし、そうした躾に対するトラウマでもあるのか。

「堅苦しいことを抜きにして、みんなと楽しいことができればよい!」という大河がここ数年何度かお目見えして、ゲンナリしています。

「ブロッコリー嫌い! チョコレートちょうだぁい!」とねだるお子様と同じじゃないですか。

なぜそんな無責任極まりない「イベントでハッピー♪感覚」が好きなのか? そうしたスタンスが純粋でイイと持て囃されている?

どうにも平成の価値観だろうとは感じます。「リア充こそ正義路線」と言いましょうか。

そんな調子では、幕末どころか明治でも通用しません。全体的に見て、このドラマはゆるゆるなのです。

江戸時代が終わり明治時代になっても、武家の躾は恐ろしいものがありました。

例えば会津藩士の子孫が弱音を吐くと、

「おめの先祖は今のおめと同じ年頃で自害したぞ!」

と怒鳴られたなんて話を聞きます。

明治物のフィクションである山田風太郎『警視庁草紙』(→amazon)では、柴五郎が会津の幼い子どもを叱咤激励する場面もあります。

「もう足が痛いと? そんなやつは会津の侍の子ではない!」

そう叱咤激励すると、たちまちしゃんとする。そんな厳しくも哀しい場面です。

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本作には、そういう厳しさが全く見当たりません。

『鬼滅の刃』の炭治郎あたりのほうが、もっとシャッキリしている。

『青天を衝け』の作り手が、時代劇にさしたる愛着もなく、令和のウケ狙いがしたいと見えるようで虚しいのです。

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