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【青天を衝け第16回感想あらすじレビュー】
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孝明天皇の意思が見えない
『青天を衝け』は様々な嘘をついています。
本作についての批判をするなとは言われますが、こうも無茶苦茶だとそこへ突っ込まないと話が進みません。
栄一と喜作のコンビは、既に尊王攘夷から足を洗ったように思える。これを信じてよいのか判断が難しい。
それに動機が「一橋家で知ったから」というのも単純化し過ぎでしょう。
前後の事件を考えてみますと……。
今回の時系列の前に【姉小路公知暗殺事件】がありました。薩摩藩士・田中新兵衛が犯人ではないかとされ、自害を遂げてしまい、真相究明はできない。
それでも島津久光の動きは素早い。姉小路公知ほどの大物殺害に薩摩藩が関与していたとされると、立場が危うくなります。
孝明天皇も、長州藩士ら尊王攘夷派の「奉勅攘夷」には、ほとほと嫌気がさしていた。
会津藩は、この孝明天皇の叡慮を尊重する筆頭です。
なんとか朝廷の信頼を回復したい薩摩藩。利害抜きに孝明天皇に忠義を尽くす会津藩。
この二藩が手を握り、長州藩を追い出す【八月十八日の政変】が起きるのです。
長州藩としても黙ってはいられないわけで、巻き返しをはかろうとしていたところ、その不穏な動きを察知した新選組が急襲し、【池田屋事件】が起こる。
そして【禁門の変】へ。
長州藩は御所に撃ち込むという暴挙をやらかし、薩摩藩と会津藩がこれを撃退した。
ここで慶喜と天狗党のことも考えてみますと……。
天狗党が挙兵した動機は、尊王攘夷を掲げる長州藩士らが危機に陥っているからこそ救いたいというものがありました。
要は【禁門の変】あたりと連動しているのです。
そんな長州藩過激派、孝明天皇も嫌う一派と通じているとはどういうことだ?
幕府はそう認識したからこそ、天狗党に厳しく当たる。
「国を思う」だのなんだの口先で言われたところで、やってることは国家反逆行為です。
いわばテロリスト集団と将軍後見職の慶喜が通じているって、マズイですよね。
ゆえに慶喜が冷たく天狗党を突き放すことはリスク管理としては正解です。
なぜ『青天を衝け』ではそこをキッチリ描かないのか?
この時期に、孝明天皇が尊王攘夷を掲げる派を嫌っていたことはタブーとされました。
なぜそんな第二次世界大戦前じみたタブーが21世紀になってまでNHKを縛っているのか、まったくもって不可解極まりないですが、そのあたりを明確明瞭に描いた大河は2013年『八重の桜』が最後となります。
天狗党とつながりがある栄一や喜作が危険人物扱いされることも、全くもって不思議ではありません。
信頼できない語り手
歴史でなくてミステリの話かよ……。そんな風に呆れられてしまうかもしれませんが、もう少々お付き合いください。
Wikipediaによれば、こう定義される概念があります。
◆信頼できない語り手
信頼できない語り手(しんらいできないかたりて、信用できない語り手、英語: Unreliable narrator)は、小説や映画などで物語を進める手法の一つ(叙述トリックの一種)で、語り手(ナレーター、語り部)の信頼性を著しく低いものにすることにより、読者や観客を惑わせたりミスリードしたりするものである。
『青天を衝け』の歪みの根――それを解く鍵はこれではないでしょうか。
さしずめ渋沢栄一はこうなる。
悪党(Pícaro)
誇張や自慢の激しい語り手である。
そして徳川慶喜はこう。
嘘つき(Liar)
健全な認知力をもつ成熟した人物だが、過去の不穏当な行動や信用に傷をつけるような行動をあいまいにするため、わざと自分自身のことを事実を曲げて語るような語り手である。
この君臣コンビが、自身の過去を語り始めたのは、明治になって結構な時間が経過してからのことです。
慶喜は、かつての家臣、とりわけ倒幕経緯に不満があり、かつ政治力のあった者との面会は避けてきた。それなのに自分は会えたと栄一は嬉しそうに語っています。
ぼちぼち、そろそろ……当時を知る者が世を去り、ほとぼりがさめたころになって、この君臣は過去の検証を始めたのです。
栄一は自慢が激しく、慶喜は自己正当化が激しい。
いくら当時を知る者の回想とはいえ、この二人の言い分を全面的には信頼できません。
明智光秀にせよ、織田信長にせよ。西郷隆盛にせよ、吉田松陰にせよ。知名度が高く、検証されているものならば、嘘をついてもすぐにバレます。
しかし渋沢栄一はそうではない。
周囲からの人気も関心もさほどなく(十年前の書物にはハッキリと忘れられつつある人物とある)、検証されないから嘘もバレにくい。
それなのに、このドラマの作り手は誠意にあふれた人物としてこの二人を扱う。
要するに、インチキ商材の売り手じみているのです。
NHKがどうして受信料でそんなあやしいものを作るのか?
その検証は流石に私の手に負えません。あくまで仮説を形成したまで。誰か、検証をしてくれませんかね。
暗殺場面のリアリティ
円四郎の死について言えば、きっと号泣されている方もいらっしゃるでしょう。
すごく感動的だったという見方もわかります。
しかし、どうにもこのドラマは、斬られてから死ぬまで雄弁すぎる。かつ演出が古く、リアリティに欠けている。
「死にたくねえぞ、殿、あなたはまだこれから……」
って、喋る時間に違和感ありませんか?
心臓発作急死の斉昭が吐血し、キスをして亡くなったあたりから諦めはついていましたが、医療考証の担当者さん、昨年の大河で張り切りすぎてお休みですかね。あるいは『おかえりモネ』に気合を入れすぎたとか。
いや、それ以上に慶喜です。
和服所作ができないまま走って駆けつけ、犯人がどこにいるかわからない状態で止まるのは危険極まりない。
テロや暗殺現場では、遺骸を捨て、負傷兵を置き去りにするのは鉄則です。
もしも誰かが助けに行けば、実行犯にとっては敵を倒すという戦果が増え、一度の暗殺でより多くを倒せて効率的になるからです。
『麒麟がくる』の斎藤道三あたりなら「それそれそれな!」と言い出しそうな仕組みですが、それが現実ですので、家臣も死ぬ気で慶喜の行動を止めなくちゃ!
どうにも『真田丸』や『麒麟がくる』にあった、リアリティのある暗殺システムが実装されていないんですね。
もうちょっと真剣に、人命を奪うことの現実を考えて欲しいと思う次第です。
暗殺者は全員水戸藩士なのか?
どうしてこんなことをつっこむかと言いますと、犯人がこう叫んでいたのです。
「きえええーい!」
これは薩摩藩士の猿叫では?
幕末の暗殺事件は、断片的情報による確定が多い。あれでは真相不明になってしまう。
いや、こんなこと書きたくありませんけど……史実解説の前振りということでよろしくお願いします。
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