今回もまた徳川家康が登場。
彼の役目は何かというと、明治政府をディスることでした。
確かに明治政府のスタートは順風満帆ではないし、計画性もなかった。
しかし家康の言葉は引っかかります。
というのも新政府をけなすことによって、幕臣を褒める手法のような気がしてなりません。
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明治だったら叱られそうな所作ばかり
大隈の元に、玉乃がやってきました。
玉乃は栄一が気に入らず、幕臣百姓だのなんだの文句をつけますが、私が大隈ならこう言うかな。
「小栗忠順を殺してしまったのがつくづく悔やまれるんだよー。その下位互換かもしれない渋沢でも、使えるものは使おうよ」
ただし、本作の小栗は、筋肉で問題解決しそうなネジ好きモブ扱いで残念でした。
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栄一もドヤ顔で颯爽とやってきます。
「いよっ、弍臣どもが雁首揃えて何様のつもりでぇ」
とでも呼びそうな人々が登場だ。
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幕臣から新政府へ。そこに大きな葛藤があればまだしも、明るくハキハキ、さして悩まずに「新政府でがんばる!」とアピールされると萎えるばかりです。
精神性が明治人でなくて平成の感じがするし、所作も妙です。
洋服にも靴にも慣れていないはずなのに、足音を響かせる。コートを颯爽と羽織る。
今時のビジネスパーソンがやるような「ろくろ回し」ポーズをとる。三白眼になる。
さらには早口で怒鳴り散らす。
いずれも明治だったら「下品だ」と叱られそうな所作ばかりです。時代劇特有の味わいがまるでない……。
玉乃の不満も当然でしょう。トップが鶴の一声でホイホイと人事を決めてしまっては、現場に混乱を招き、上がる成果も上がらなくなってしまうでしょう。
明治維新の礼賛ではそういうワンマン組織をやたらと褒めますが、良いことばかりではないはずです。
歴史は英雄だけのものではない
栄一はここでガーッと知識を披露します。
本作は、この手の説明セリフをもう少しわかりやすくして欲しい。なにより主人公だからって栄一が全てを語りすぎのように感じます。
個人に依存しすぎる組織はいざというとき危うい。もし渋沢栄一に何かあってもいいように、頭脳は分散させておくのがリスクヘッジでしょう。
これは何も言いがかりをつけたいのではなく、発想として危険だと思うのです。
よくあるじゃないですか。
「もしもあの戦国武将なら、この大問題をどうする?」みたいな問いかけ。
実際、渋沢栄一ならどうSDGsに立ち向かうか?みたいなことすらメディアで語られたりしている。
この手の英雄史観は、たしかに大河と相性がよろしいのですが、世界的に見ると“オワコン”です。
アメリカ独立戦争やナポレオン戦争、第一次世界大戦の絵を比較するとわかりやすい。
前者はワシントンやナポレオンが大きく描かれている一方、後者は名もなき兵士の群像が描かれています。
市民による革命、徴兵制を経て、人間は悟りました。えらい英雄が現れ、歴史をズバッ!と変えるわけじゃない。民衆一人一人が変えてゆくのだと。
昨年の『麒麟がくる』は、そうした世界基準の歴史観を備えていました。
それが駒、東庵、伊呂波太夫、菊丸たち。彼らのような歴史に名を残さずとも活躍した人間がいるからこそ時代は動きます。
しかし今年は逆行している……。
渋沢栄一は万能の天才ではありません。
彼の優れている範囲は限定的で、小栗とは違い工学系に対する興味や知識はありません。ゆえにペラペラ話されると妙だし、脚本を書いてる側が理解しているようにも思えない詰めの甘いセリフになっています。
実際、渋沢は足尾銅山やハンセン病隔離政策に権限を駆使し、惨劇を引き起こしています。
にもかかわらず本作では「栄一さえいれば何でもできる!」という圧が凄まじいことになってきました。
明治のコネ社会が
千代とうたが大きな屋敷へやってきます。
これを手放しで喜んでもよいのかどうか。出世を喜び、威光を自慢するようにも見えます。
脚本が渋沢栄一の伝記に依っているので、こうした論調になるのは仕方ないとは思います。
けれども繰り返します。
明治時代は、上級国民気取りの連中がヘラヘラしている一方、奥羽越列藩同盟の諸藩は塗炭の苦しみを味わい、北海道では政府の杜撰な開拓計画のせいで屯田兵が命を落とし、アイヌには疫病が蔓延していました。
もしも現在、コロナワクチンが権力者のコネを中心に回り、庶民が無視されていたらどう思われます?
言ってみれば当時の明治新政府とはそういう性質がありました。
そして明治3年、タップゲーのように改革が次々と進みます。
戸籍法案、度量衝国際基準化、東京横浜間測量、蚕卵紙鑑札交付など。
会話がポンポン飛ぶので、そのいずれも詳細はわかりません。慶喜の幕政改革も似たような描写でしたし、スタッフ出演者が重なる『あさが来た』でも同様でしたね。
本作は事業の5W1Hは明確でない。いちいち比較するのも何ですが、『麒麟がくる』での明智光秀の場合、松永久秀と筒井順慶の仲裁等、そのへんがクリアでした。
栄一は、前島密から飛脚便と鉄道の件で予算を聞いて驚きます。
「ともかくカネがない!」
金融を回すことに全力を尽くした小栗忠順の薫陶を少しでも受けていたら、特に驚くことなく「やはりか」と受け止めていたでしょう。
そうしたリアクションの方が経済通に見えると思うのですが。
生糸の重要性は常識なのに
栄一は、大隈から養蚕を任されました。
実はその重要性は幕末の時点でわかっていたことです。
ペリー以来続々と来日した外国商人にとって、一番の目玉はなんといっても生糸。
政治とも少なからず関係があり、幕府と交流を深めたフランスは、生糸利権を独占できるようになりました。
600万ドルの借款の背景にも、条件として生糸優先貿易が裏にはあった。
もちろん本作では全く描かれていないので繋がりも出せません。せっかくの栄一得意ジャンルなのに伏線を張っていないことが不思議でなりません。
話を進めますと、フランスの動きに対し、反発したのがイギリスとアメリカの商人です。
そんな商人の動きもあったからこそ、イギリスが薩長の倒幕を支援したともいえる。
ハリー・パークスあたりからすれば、
「お前ら、わかってんだろうな? 生糸権益ありきで支援したんだぞ、あぁ?」
と、ねじ込んできそうな話です。
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ドラマでもせっかくの見せ場になりそうな話のに、なぜ蚕ダンスとかやってた……。
これまた現代で例えると、霞が関や政府のトップが、今頃こんなことを言っているようなものだと思ってください。
「スマホって知ってます? こうサクサクと指で撫でると動くんです! スマホのなんたるかを知らねえでよくもデジタルと言えたもんだ!」
いや……何こいつ……ってなりますよね。そのくらい無茶苦茶で、見ていて恥ずかしさのあまり気絶しそうになります。
それに現代でも、技術者と営業、マネジメントは別の話でしょう。
栄一は技術者としてのスキルばかりをアピールしますが、説得力がなく、やはり本作が近代史の理解に有害にすらなりかねないと感じます。
・幕府とフランスとの関係性
・明治政府の背後で目を光らせるイギリス
この辺がほとんど描かれていないんですね。
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