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孝明天皇/wikipediaより引用

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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

孝明天皇が開国に反対し、不審な死を迎える 岩倉具視による毒殺説はなさそうだけど……

更新日:

歴史にはさまざまな謎が存在します。
謎のままであってもロマンがあるとか、解明しようがないほど古い時代のものはともかく、現代の我々からすると「当時きっちり調査されていれば……!」と歯噛みするような謎もありますよね。
今回はその一つになりそうな、とある天皇のお話です。

天保二年(1831年)6月14日は、孝明天皇が誕生した日です。

幕末の話題で見かけることが多いので、歴代の天皇の中では有名なほうですよね。だいたい「孝明天皇は西洋嫌い」「孝明天皇が急死して云々」という話になりますが、今回はそれ以外のことも含めて、生涯を追いかけていきましょう。

 

日米修好通商条約の勅許を得るため堀田正睦がやってきた

孝明天皇は、父・仁孝天皇の第四皇子です。上三人の兄宮が生まれてすぐに亡くなっていたため、政治的なアレコレはなく、正式な皇太子になりました。
12歳のときから隠岐出身の儒学者・中沼了三を師に迎えて学んでいます。

そして、15歳のとき仁孝天皇崩御により即位しました。
ときの将軍は十二代・徳川家慶。つまり、既に異国船が日本近海にやってくるようになっていた時期です。そのためか、即位の前からたびたび国内の平穏を祈る儀式を行っていました。

孝明天皇27歳のとき、安政五年(1858年)に日米修好通商条約を締結する勅許を受けるため、幕府から老中・堀田正睦がやってきました。この頃から孝明天皇も政治に大きく関わることになります。
孝明天皇は一定以上の官位を持つ公家に意見を求めたのですが、はっきりした主張は出てこなかったようです。

孝明天皇自身は「私の代になって異国人に国を汚されるとは、ご先祖様に申し訳ない。末代までの恥にもなろう」と、ときの関白である九条尚忠(ひさただ)への書簡に書いています。
おそらく「西洋人は、はじめは通商を求めてきた後に軍事侵略するケースがほとんどである」ということを聞かされていたのでしょうね。通商だけなら長崎でオランダや中国相手にずっとしてきているわけですし、それ以前にも渤海国とのお付き合いをしていた時期もありますし。

その後の書簡では「誰が上京してこようと開港は認めないし、京の周辺についてはいうまでもない」と、よりハッキリと記しています。
孝明天皇の信頼が厚いときの太閤・鷹司政通は開国を主張し、受け入れられませんでした。

堀田正睦/Wikipediaより引用

 

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幕府は勝手に調印 孝明天皇は激怒し、譲位まで考える

こうして朝廷の中でも意見がまとまらない中、堀田正睦が上京。朝廷からは、とりあえず「幕府の中で意見をまとめろ。話はそれからだ」(※イメージです)と言ったのですが、正睦は「幕府内部をまとめるために勅許が必要なのです」と食い下がります。
こうなると平行線にしかなりません。

朝廷の中も大混乱で、開国派だった人は反対派になり、その逆になる人もいました。さらに、反対派の公卿88人が朝廷で座り込みを行う(廷臣八十八卿列参事件)という騒ぎが起きます。
続いて、97人の下級貴族たちによって条約撤回を求める書面が朝廷に提出されました。
これが安政五年3月のことです。

しかし、幕府は勅許を得られないまま6月に日米修好通商条約へ調印してしまいます。

これには当然、孝明天皇も朝廷も大激怒。譲位まで考えてたといい、公家たちは「御三家と大老(井伊直弼)を呼んで説明させますので、それまでお待ち下さい」(意訳)と引き止めました。
譲位してどうするつもりだったのか。その辺は不明ですが……このとき明治天皇はまだ6歳ですし、後水尾天皇が紫衣事件などに不満を抱いて譲位した故事にならおうとしたのでしょうか。

これに対し幕府は「大老は忙しいし、御三家は処罰中なんで代わりに老中首座と所司代に行かせます」(意訳)と返事。
その返事が京に届くまでの間に、幕府はロシアやイギリスとも通商条約を結んでしまいました。これじゃ孝明天皇や朝廷がさらに怒るのも無理はないですよね。

孝明天皇は譲位を再び考えるようになり、いわゆる「戊午の密勅」を発しています。

井伊直弼/wikipediaより引用

 

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「開国そのものが国の恥であり、認められない」

入れ替わりに老中首座・間部詮勝(まなべ あきかつ)が上京して釈明をします。
孝明天皇は会いませんでしたが、詮勝は「勅許なしに調印したのは幕府としても本意ではなく、海防準備が整うまでの時間稼ぎである」「準備ができたら、改めて和戦のどちらにするかを決める」と言いました。
どちらかというと、これ自体が朝廷への時間稼ぎですけども。

これを伝え聞いた孝明天皇は「開国そのものが国の恥であり、認められない」と書面で伝えます。
このため詮勝は「鎖国に戻す」と口約束をせざるを得ませんでした。孝明天皇はそれで安心したようですが、既にそれができないことはほとんどの人がわかっていたでしょうね。

幕府もそのつもりはなく、開国反対派の公卿を辞めさせたり、出家させたりしています。
孝明天皇はこれにも異を唱えようとしたが、逆らいきれませんでした。

幕府から和宮降嫁が奏請されたのは、この後のことです。
そりゃこんだけナメた言動された上、「おたくの妹さんください^^」とか言われれば誰だって大反対しますよね。しかも本人が乗り気でなかったわけですし。
最終的には和宮の母の実家である橋本家にまで根回しされ、孝明天皇も鎖国再開と譲位実行という条件付きで同意します。

 

なぜここまで外国との通商を嫌がったのか?

文久三年(1863年)に家茂が上洛してきたときには、念押しに攘夷を命じました。また、自身でも賀茂神社や石清水八幡宮で攘夷を祈願しています。
もっとも、以前から公家の一部に無理やり孝明天皇を行幸させる者がいたため、これも孝明天皇の本意かどうかはわかりませんが……。

煮え切らない態度に業を煮やした諸外国は、慶応元年(1865年)、大坂湾へ船を乗り付け、条約の勅許を求めるようになります。
孝明天皇も情勢を悟って勅許を出すことにしましたが、宮中での西洋医学禁止を命じてもいました。

少し話が前後しますが、孝明天皇の遺品に西洋式の時計があります。つまり、西洋の文物全てが嫌だったわけではないのでしょう。
では、なぜここまで外国との通商を嫌がるのか?
おそらくそれは、皇室特有の価値観によるものだと思われます。

もともと皇室というのは「浄」「不浄」についてとても敏感な社会です。たぶん孝明天皇も「西洋医学では患者の体を切ったり縫ったりすることがあるし、ときには腹を切り開くこともある」ということは聞いていたのでしょう。
となると、「天皇の体に一般人=不浄の可能性が高い者が触れるおそれがある」ということで、嫌ったのではないでしょうか。

外国人が入ってくることを嫌ったのも、国そのものを象徴する立場である孝明天皇からすれば、自らの身体を蹂躙されるように感じたのかもしれません。
薩摩藩あたりがこの辺に気付いて、もうちょっと柔軟に対応すべきだったでしょうね。孝明天皇の先生である了三は薩摩藩にもツテがありましたし。

あるいは出島のように、「外国人の居留・通商は離島に限る」方針だったらもう少し態度を軟化させたかもしれません。薪水給与令(外国船に薪と食料・水は供給するが、それ以外のお付き合いはお断り)と通商条約の間にもうワンクッション置いて、孝明天皇や朝廷を粘り強く説得するとか。
それはそれで西洋諸国との折衝に骨が折れそうですが、本来幕府はそこに力を注ぐべきだったでしょうね。そうしたら、幕府自身の延命にも繋がったかもしれませんし。

 

大久保や岩倉は孝明天皇と意見を異にし……

孝明天皇は、松平容保への信任が厚かったことからして、武家に対しても全てが嫌いというわけではなかったと思われます。
本当に朝廷や天皇への忠誠心が感じられる人物が折衝役になっていれば、ソフトランディングは充分可能だったでしょう。

しかし、この頃になると孝明天皇の攘夷や公武合体を望む方針に反対する人々が現れ始めました。

大久保利通岩倉具視は「お上が国内の争いの元である」「天下に対して孝明天皇が謝罪し、信頼を取り戻すべき」とまで主張していた模様。
これこそあべこべというか、天を天とも思わない所業というか……土下座至上主義者っていつの時代にもいるんですね。

さらに慶応二年(1866年)には、追放されていた尊王攘夷派の公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生します。
これも孝明天皇は退けましたが、その年の年末12月25日に35歳という若さで崩御してしまいました。

死因は天然痘ということになっておりますが、あまりにもタイミングがアレなので、暗殺説がいくつか出ています。

病気の進行状況としては、亡くなる2周間ほど前から風邪をひいていて、治りきらないままのまま神事を行って発熱したのがきっかけで発病したといわれています。
宮中の医師が診察や投薬を行っても回復に向かわず、天然痘の疑いが持たれ、改めて天然痘の診察経験がある医師が呼ばれました。それから医師15人による24時間体制で診察が続いたのですが、12月25日に痰がひどくなり、その日の午後11時頃亡くなったということになっています。

この間、公的な記録では一時回復の兆しがあったように書かれていることから、毒殺説がささやかれはじめました。
孝明天皇は基本的に身体頑健で、風邪もほとんどひかなかったといいます。そのため公家の中には「風邪の心配もないほど健康でいらしたのに、痘瘡と聞いて驚いた」と日記に書いている人もいて、当時から不審に思われていたのです。

 

毒殺説は下火となるも、どこから天然痘に感染したのだろう

孝明天皇の真の死因は一体何なのか?
そんなミステリーも、明治時代に入ると皇室に疑問を抱くことがタブー視されるようになり、近い時代には事実の究明が行われませんでした。

解明に重きを置くのなら、これはあまりにも手痛いことです。現代の事件だって、時間が経てば経つほど証拠や証言は取りにくくなりますよね。

戦後に皇室に対する“聖域”が少し薄れ、学者先生方の間で孝明天皇の死因が議論されるようになりました。
ヒ素による毒殺説はその中でも支持者が多かった説です。
実行犯候補としては、岩倉具視が筆頭でした。
まあ、確かに倒幕派の中にちらほら孝明天皇や皇室への経緯が見えない・薄い人物がいますからね……。

その後、12月20日以降に医師たちから典侍=孝明天皇の側室である中山慶子(明治天皇の母)へ「数日中が山場である」という説明をしていた書簡が見つかりました。
また、慶子宛の書簡に公的記録と違った容態が記載されていることも判明します。
つまり、公的な記録のほうは表向きに発表する内容を記したもので、実際は違ったということになるわけです。

これにより毒殺説は下火になりました。

ただし「基本的に宮中から出ない孝明天皇が、どこから天然痘に感染したのか」という謎は残ります。
この時期、宮中や京都で他に感染・発症者はいたんですかね?

実は、父の仁孝天皇も「皇族や公家のための教育機関(学習院)」を設置することが決まった直後に不自然な急死をしています。

孝明天皇だけでなく、根はもっと深いところにあるのかもしれません。
もしかしたら、天皇の死因を探らせないための聖域化だったりしてゲフンゴホン。

長月 七紀・記

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参考:孝明天皇/wikipediaより引用

 

 





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