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足利義満/wikipediaより引用

鎌倉・室町時代 日本史オモシロ参考書 その日、歴史が動いた

足利義満51年の生涯をスッキリ解説!日本国王の称号を持つヤリ手将軍の生き様とは

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鎌倉・室町・江戸幕府を合わせると、征夷大将軍は全部で何人いたか?

答えは39人。

源頼朝に始まり徳川慶喜で終わるまで、
・鎌倉9代
・室町15代
・江戸15代
という計算ですね。

では、この全39人のうち、例えば小中学生の歴史に名前が登場するような、著名な将軍は何人ぐらいいるか?

ざっと数えて
・源頼朝
足利尊氏
・足利義満
徳川家康
・徳川家光
・徳川綱吉
・徳川吉宗
・徳川慶喜
この8名ぐらいでしょうか。

そして最後にこの質問を。

上記8名のうち、最もド派手な建物を建てたのは?
と言うと、もはや答えは言わずもがなってところでしょうか。

金閣寺(鹿苑寺金閣)でお馴染みの室町幕府三代将軍・足利義満――。

本稿では「日本国王」というBIGなタイトルまで持った、この足利三代将軍の生涯を追いかけてみたいと思います。

 

母は二代将軍義詮の側室だった

義満は、幼い頃から色々と逸話に事欠かない人です。

例えば生まれた日が、祖父・足利尊氏が亡くなってちょうど100日経った日。
こうなると生まれ変わりだのなんだのという伝説になりやすい傾向がありますが、尊氏と義満は真逆といっていいほど似ていないためか、その手の話はないようですね。

義満の母は紀良子という側室でした。
しかし、父の二代将軍・足利義詮と、正室・渋川幸子の間に生まれた男子は既に夭折しており、義満は嫡男として扱われます。

そのため義満は、幸子を母として扱っていました。
身分の高い公家や武家ではよくあったことで、場合によっては「側仕えの老女(ベテラン)だと思っていた人が本当の母だった」なんてケースも珍しくありません。

同母弟として足利満詮(みつあきら)という人がいましたが、彼は義満とは真逆に控えめな人物だったらしく、徹底して兄の陰に立って働き、後に自ら出家しています。
似てない兄弟のほうがうまくいくもんですね。

足利満詮/Wikipediaより引用

義満が生まれた頃はまだ幕府も政治も落ち着いておらず、家臣に守られて播磨へ逃れていたこともありました。
播磨白旗城の主・赤松則祐に養育されたと考えられています。

幸い、程なくして京へ帰れることになりましたが、義満はこのとき途中で泊まった摂津(明石か須磨あたりとされる)の景色をいたく気に入って、
「ここの景色を京に持って帰りたい。お前ら運べ^^」(意訳)
とのたまったそうで。

義満の一筋縄ではいかない性格をよく表す逸話ですね。

その後、家臣たちが何と言って義満を諦めさせたのかが気になるところですが、そこまでは記録されていません。

後世からすると、むしろ、そっちの方が気になるんですけどね。
さすがに10歳にも満たない少年の頃の話ですから「わざと試した」なんてことはないと思うのですが。

 

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家臣に恵まれスクスク育つ

京都に帰った義満は、管領・斯波義将の教育を受けつつ、赤松則祐とも良い関係を続けました。

1366年には、北朝の後光厳天皇から「義満」の名と従五位下の位階を授かっています。
同年、貞治の変により斯波義将らが失脚したため、新たに細川頼之が管領となりました。

細川頼之/Wikipediaより引用

義満最大の幸運は、このように近臣が入れ替わっても、忠誠心のある人が常に側にいたことです。
ほんの30年前に滅びた鎌倉幕府が、血縁者同士・御家人同士、はたまた御家人(幕府の家臣)vs御内人(北条家の家臣)の争いに明け暮れていたのと比べると、奇跡といっても恵まれっぷりでしょう。

そんな義満が家督を継いだのは1367年のこと。
父・義詮が病没し、まだ11歳にして家督と将軍位を継ぐのです。

元服は翌年のことでした。元服式の主だった役目は全て細川氏が担当し、周囲をがっちり固めていたとか。

さすがにまだ実務はできませんが、細川頼之らによって土地制度や宗教関係の整備が進み、義満はそれを見ながら育ちます。
ちょうど幼い頃の北条時宗が、親戚の北条実時の仕事ぶりを見ながら成長したのと、構図的にちょっと似ていますね。

1370年には朝廷から、延暦寺とその支配下にある者への取締権を与えられ、順調に将軍として認められていきます。

 

正室・日野業子との間に子は恵まれずとも

正室に日野業子を迎えたのは1374年のことでした。

二人の間に子供が生まれなかった(あるいは生まれても夭折した)せいか。
義満は側室を多く抱え、あっちこっちで子供を産ませています。

しかし、後に将軍となる足利義持・足利義教の母である藤原慶子が亡くなったときの冷淡ぶりからすると、義満が正妻の業子を愛していたという話は真実のように思われます。

もともと業子は和歌が得意で寵愛されていたとも伝わりますし。
慶子に対して冷たかったせいで、息子である義持との仲があまり良くなかった……という説もあります。これもあるあるですね。

義満の功績の一つに明(当時の中国)との貿易を大々的に行ったことが挙げられますが、少なくとも結婚する前後あたりからその構想を抱いていたようで、明に申し入れたことがありました。

しかし、この頃の明は
・南朝を唯一の通商相手としていたこと
・明の皇帝から見て義満は陪臣に過ぎないこと
から交渉は失敗しております。

まぁ普通は、一つの国に二つの政権があるとは思いませんもんね。
南北朝時代は、外交関係においても、いささか面倒な事態を引き起こしていたんですね。

 

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政務を執りながら多彩な才を発揮する

このあたりから、義満の特徴である
「同時期にあらゆる方向の政策を行っている」
という点に着目してみると面白くなってきます。

明との交易を考える一方で、勅撰和歌集の編纂を執奏したり。
屋敷をそれまでの三条坊門から北小路室町に移して、幕府の政庁としたり。

”室町”幕府の名はここからきています。
別の場所だったら、今頃、我々もその名で同幕府を呼んでいたのかもしれません。

他には、京都市内の行政権・課税権が複雑化していたのを幕府に一元化させ、守護大名が謀反を企てても対抗できるよう、将軍直属の軍として奉公衆を設けました。
また、奉行衆という官僚組織も作っています。

夢と現実を同時に見ている……というと、ちょっと綺麗すぎますかね?

 

興福寺の宗徒が神木抱えて強訴に来よった

義満の実務能力が評価されたのでしょう。
朝廷での官位もガンガン上がっていきました。二条良基の支援を受け、公家社会の中にも積極的に入っていきます。

それがプラスに働いたのが、1378年に起きた「康暦の強訴(こうりゃくのごうそ)」という事件です。

”南朝方に”奪われた寺社領の変換を求めて、興福寺の宗徒が春日大社の神木を掲げて訴えてきたのです。
強訴というとかつて権勢を誇った白河天皇が「加茂川の水、双六の賽、山法師」と並び称した延暦寺のものが有名ですが、さらに古い歴史を持つ興福寺も度々やっていました。

興福寺猿沢池と五重塔/Wikipediaより引用

興福寺は、藤原氏の祖先である鎌足と不比等にゆかりの深いお寺であり、さらに春日大社には藤原氏の祖先とされる天児屋命(あめのこやねのみこと)が祀られています。
つまり、興福寺が強訴をすると、藤原氏系の公家は実質的に出仕できなくなってしまうのです。

場合によってはご神木を御所の門前に放置して
「神意が目に入らぬか!」
みたいな態度を取ることもありました。




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一応、ご神木を持ち出すにあたって儀式をするのですが、「そんだけ大事に扱うものなのに、屋外に放置するのはいいんかい!」とツッコミたくなりますね。

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