中南米

イースター島とモアイ像の歴史 巨大な石像が作られ、廃れていった経緯とは

1722年(日本では江戸時代・享保七年)4月5日、太平洋の孤島・イースター島が発見されました。

モアイ像でお馴染みのところですね。

オランダ人がここへやってきた日が、たまたまキリスト教の行事・イースターだったことでこう名付けられました。

島の人からしたら「???」って感じだったでしょうね。

イースターは邦訳すると「復活祭」です。

イエス・キリストが処刑されてから3日後に復活したという伝承から来ています。

そんな大事な日の割に毎年日付が変わるのは「春分の日の次に来る最初の満月の次の日曜日」という面倒な基準になっているからです。

それはさておき、島の歴史を見ていきましょう。

現地語では「ラパ・ヌイ島」とのことですが、今回は「イースター島」と呼ばせていただきますね。

 

4~5世紀には人が流れ着いていた

イースター島が文字通りの「絶海の孤島」になったのは、そもそもこの島が海底火山の噴火によってできたものだからだといわれています。

それでも4~5世紀には人が流れ着いていたそうですので、人類の技術というか根性ってすごいですね。

歴史で「絶海の孤島」というと、ナポレオン最期の地・セントヘレナ島が有名です。

イースター島とは(地図上だと)ちょうど大西洋と南アメリカ大陸を挟んで対称的なところにあります。

「だから何なんだよw」と言われたら何でもないんですけども、こういうの面白くありません?(´・ω・`)

※上記の地図上で右側にあるのがセントヘレナ島

島の社会は、いわゆる「部族社会」で、トップの人が絶大な権力を持っていました。そのトップの祖先はさらにエライということで、祖先を神として崇めていたといいます。

当初は島全体で一つの村だったと思われますが、人口が増えるにつれ家が別れていき、それぞれ別の村を作るようになっていきました。

また、この辺の地域をまとめて「ポリネシア」というのですが、イースター島はポリネシア圏で唯一固有の文字を持っており、この点からも相当文明が進んでいたことがわかります。

 

10世紀頃までのモアイ像は下半身も腕もあった?

日本人にとってイースター島といえば、なんと言ってもモアイですよね。

10世紀ごろまでに作られるようになっていたようです。

絶海の孤島ということはよそから技術が入ってくることもほとんどないわけですから、当時の人々が向上心豊かだったことがわかりますね。

モアイの材料となっている凝灰岩(ぎょうかいがん)は、火山灰が積み重なってできたもので、柔らかく加工しやすいものでした。

日本では「顔の大きな胸像」というイメージが強いですが、古い時代には下半身があったり、腕も作られていたりしたそうです。

当時の採石場には、今も作成途中の石造がいくつも残っているとか。

しかし、島一番の名物がやがて島を滅ぼすことになります。

あれだけ巨大なものを運ぶには、丸太の上を転がして動かすしかありません。ピラミッドの石材も同じようにして運ばれたといわれています。

ですが、イースターのような小さな島で、モアイを運ぶたびに木を伐採していてはあっという間にハゲ山になってしまいますよね。また、起こすときにもテコの原理を利用するため、これまた木材が必要になります。そのため……。
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