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ヴィクトリア女王/Wikipediaより引用

意外と優しい!? 織田信長さん

週刊武春

大英帝国全盛期の象徴ヴィクトリア女王ってどんな人?その人物像に迫る

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イギリスの全盛期といえばヴィクトリア朝(1837年に即位)。
この時代を舞台にしたフィクションは多く、シャーロック・ホームズシリーズは現在も日本に多くの愛読者がいます。ヴィクトリア朝というのはなんとなく華やかな時代というイメージが、広まっているのではないでしょうか。

しかし、その時代の女王でありヴィクトリア朝を象徴するヴィクトリア女王その人には、あまりはっきりしたイメージがないかもしれません。
思い浮かぶ彼女の像は、戴冠式を描いた華麗な肖像画か、あるいは晩年の喪服を身につけた気難しい肖像画か。

在位中の彼女の時代背景や事件についてはこちらの【関連記事 大英帝国を躍進させた世界一の女帝ヴィクトリア女王 在位なんと63年7ヶ月!】があります。
今回は、彼女の性格を見てみたいと思います。

 

ヴィクトリアという名前は実は「英国王室」らしくない

ウィリアム王子とキャサリン妃の間に王女が生まれるとき、ブックメーカーたちが、王女の名前が何になるか賭けをしていたことを覚えている方もいることでしょう。

結果はシャーロット・エリザベス・ダイアナとなりました。
祖母からとった「ダイアナ」は例外として、シャーロットとエリザベスは実に「英国王室」らしい名前です。シャーロットもエリザベスも、過去に同じ名の王族女性がいました。

英国王室には男女ともに、王室伝統のファーストネームがあります。
無難なのが親や先祖にちなむもので、通常過去一族にいた名前が選ばれます。「ダイアナ」の場合、祖母由来とはいえ史上初なので、意外性とウィリアム王子の母への強い思いがこめられた名前といえます。

「ヴィクトリア」の由来は母親でドイツ貴族出身のヴィクトワールの名を英語読みしたものでした。

ヴィクトリア女王在位後は有名になる「ヴィクトリア」という名は、英国王室らしからぬ例外的なものでした。

 

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ハノーヴァー朝の王室はほとんどドイツ人

君主というのは国をまたいだ政略結婚をするため、他国出身の親を持つことが少なくありません。

イギリスの場合、「ほとんどドイツ人」という時代が続きました。
ドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルクから、イギリス国王となり、ドイツ語しか話せなかったというジョージ1世から、ヴィクトリアの前に王位についたウィリアム4世まで、5代にわたり妃がドイツ出身でした。

ヴィクトリア自身も、母と夫がドイツ人です。

ハノーヴァー朝 英国君主の親と配偶者に占めるドイツ出身者
ジョージ1世:両親、配偶者ともにドイツ出身
ジョージ2世:母、配偶者ともにドイツ出身
ジョージ3世:母、配偶者ともにドイツ出身
ジョージ4世:母、配偶者ともにドイツ出身
ウィリアム4世:母、配偶者ともにドイツ出身
ヴィクトリア:母、配偶者ともにドイツ出身

確かに「ほとんどドイツ」です。

 

ヴィクトリアは「プリンセス・オブ・ウェールズ」ではなかった

イングランドの皇太子は「プリンス・オブ・ウェールズ」と呼ばれます。

そのため、女性の王位継承候補者は女性形の「プリンセス・オブ・ウェールズ」と勘違いされることがありますが、この称号は皇太子妃のものであるため、ヴィクトリア女王やエリザベス二世は該当しません。

即位前の彼女はあくまで「王位継承権第一位の王女」でした。

 

彼女が即位した時、誰もがその治世が輝けるものになるとは思っていなかった

年老いて奇矯なところがあったウィリアム四世が崩御し、僅か18歳の若き女王が即位した時、イギリス経済はどん底で誰もが不安を抱いていました。
産業革命でリードしていたイギリスですが、戴冠式が行われた1838年は他国も追いついて来ました。

さらに全国的な不作も追い打ちをかけ、イギリスはどん底ともいえる経済状況だったのです。
ディケンズが貧民の窮状を描いた『オリヴァー・ツイスト』を発表したのもこの頃。本作を愛読していた女王は民の困窮に心をいため、政治家に改善を訴えたこともあったそうです。

とはいえこの貧困層への感心は一時的なものだったようです。即位50周年の際にスラムを視察した時には、不快感を示すだけで、そこで生活する人々の苦境に対しては無関心でした。

そこから一転して大英帝国は黄金期を迎えますが、これはヴィクトリアの政治的手腕によるものではありません。ヴィクトリアは政治的なセンスはそれほど優れておらず、頑固で人を好き嫌いで判断し、ウィリアム・グラッドストンのような有能な政治家を疎外したこともあります。また後年、喪に服して公務を軽んじていると国民に不満を抱かれました。あくまで彼女は大英帝国の象徴であり、舵取りを担ったわけではありません。

 

最愛の夫・アルバートとの結婚! そしてヴィクトリアは相次ぐ妊娠

ヴィクトリアの結婚相手は、ザクセン=コーブルク=ゴータ公子アルベルトでした。彼女はイケメンに弱く、相手が美形だと評価が甘くなることが、彼女の日記を読むとわかります。

アルベルトのイケメンぶりに、ヴィクトリアはすぐに惚れ込み、亡くなるまでの17年間、熱烈に愛し続けたのでした。
ヴィクトリアとの結婚で英語読みのアルバートと名乗るようになった彼には、自由も妻との新婚生活を楽しむ余裕もありませんでした。生真面目なヴィクトリアは政務を優先してしまい、新婚旅行も甘い生活もおあずけだったのです。おまけに外国からやってきた彼には宮廷内に居場所もなく、孤立してしまいます。

そんな二人ですが、子宝には恵まれました。結婚生活の17年間は4男5女を授かります。
これだけ子宝に恵まれたのも、ヴィクトリアが健康であったことも大きいのでしょう。女王の侍医たちは女王の苦痛をやわらげるために、世界初の無痛分娩を行ったといわれています。
女王夫妻の家庭は当時の理想とされましたが、女王本人は「うまれたての赤ん坊は醜くてかわいいと思えない」というなかなか辛辣な言葉を日記に書き残しています。

この出産ラッシュに救われたのはアルバートでした。
女王の妊娠出産の間、女王の補佐役として注目をあびたのです。補佐としてふるまううちに、アルバートの高い政治能力が周囲にも目に見えるようになりました。アルバートは女王のお気に入りであったメルバーンと対立したピールが苦手でしたが、アルバートはピールの政治力を見抜き、女王に推薦します。
メルバーンからピールへの政権交代がスムーズに進んだのは、アルバートの尽力もあったのです。

夫のアルバート/Wikipediaより引用

 

ウェディングドレスが白いのもヴィクトリアが由来

ウェディングドレスといえば白が定番ですが、実はこれもヴィクトリア女王の結婚式が由来です。
それまでのドレスは、花嫁が持つ気に入ったドレスであればどれでもよかったため、特に色は指定されていなかったのです。むしろウェディングドレスに白はあまり用いられていませんでした。

ところが、女王が敢えて白を用いたことで当時の富裕層を中心に人気の色となり、定番色として定着するまでになったのです。

木の化石である宝石の一種「ジェット」も、ヴィクトリア女王が夫の喪に服した際に用いたことから人気が出たと言います。
彼女のファッションは世間の女性にとって注目の的でした。

 

最愛のアルバートを、無能なアルバートが殺した! 我が子との確執

ヴィクトリアもアルバートもきまじめな性格でした。
が、長男のアルバートは親には似ない奔放な性格でした。
ヴィクトリアの伯父にあたるジョージ四世もかなり遊び好きな性格でしたから、そちらに似たのかもしれません。

両親にとって長男アルバートは悩みの種であり、ヴィクトリアは我が子を「無能」と呼んでいました。ここからは、二人もアルバートが出てきてまぎらわしいので、便宜上、王子の方を愛称の「バーティ」と記します。

バーティは在学中のケンブリッジ大学でも悪友とつるみ、学則違反をするという苦情が学寮長から寄せられました。
当時ケンブリッジ総長をつとめていたアルバートにとってこれほどの屈辱はありません。大学まで出向き、息子を叱りつけねば気が済みません。

アルバートは激務続きで体調を崩していたにも関わらず、大学へと向かいます。そして我が子に小言を言ってから戻ってくると体調を崩し、そのまま帰らぬ人となります。1861年、アルバート公はまだ42歳の若さでした。

早すぎる夫の死にヴィクトリア女王は悲嘆にくれ、その怒りはアルバートの死の一因となった我が子バーティへと向けられます。
ヴィクトリアはバーティを無能と決めつけ、「あんな無能な男に政務なんかできるわけがない!」と政務から遠ざけてしまうのでした。バーティも母に反発し、煙草嫌いのヴィクトリアの前で、これみよがしに葉巻を吹かしたと伝わります。

バーティはのちに、絶世の美女と名高いデンマーク王女アレクサンドラを妃として迎えてからも、享楽的な生活をやめる気配はありませんでした。アレクサンドラは伝説的な美貌で知られるオーストリア皇后エリザベートにも匹敵すると言われたほどの美貌の持ち主であり、ヴィクトリアもこの嫁を気に入っていました。

これほどの美女を嫁として迎えながらも遊び回るバーティに、ヴィクトリアはますます怒りをつのらせます。
一説によれば、バーティの愛人は百人を越えたとか。バーティの愛人の一人にアリス・ケッペルという女性がいましたが、彼女はチャールズ皇太子の愛人であり、のちに再婚したカミラ妃の祖先にあたるそうです。

バーティー/Wikipediaより引用

 

「女王」だけではなく「女帝」へ 娘や孫より格下なんてプライドが許さない!

ヴィクトリアは女王として有名です。
そして同時に、インドの「女帝」という称号も持っていました。

大英帝国の女王として君臨していたヴィクトリアには、ある不満がありました。同じ君主でありながら、皇帝の方が王より格上とされていたことです。
ロシア、そしてプロイセンごときが「皇帝」を名乗り、英国女王より格上であるなんて、ヴィクトリアには許せません。
彼女の娘はプロイセンに嫁いでいます。その娘が産んだ外孫の方が、直系の孫よりも「格上」になるなんて、我慢がならないことでした。

1876年、ヴィクトリアは首相のディズレーリをせっついて、「女王にして女帝のヴィクトリア」という称号を名乗れるよう、法案を提出させ、議会を通過させます。

「女帝」という称号はイギリス国民にはなじみがなく、あまり人気はありませんでしたが、ヴィクトリアのプライドには「女王」の称号だけでは足りなかったのです。

 

「諸君、さあ一服楽しもうじゃないか!」

女王だけではなく、女帝としての称号を手にしたヴィクトリア。1901年、20世紀という新しい世紀を迎えたその年、ヴィクトリアは64年近くに及ぶ長い統治を終え、81歳と7ヶ月という長い人生を終えます。
イギリスの君主としての在位期間は、2015年にエリザベス2世が破るまで最長でした。

親の統治が長いということは、皇太子にとっては重荷でもあります。
偉大な母が世を去り、自身が戴冠式を迎えた晩。今やエドワード七世として即位した彼は、晩餐会に出席した賓客たちにこう声を掛けました。

「諸君、さあ一服楽しもうじゃないか!」

煙草を毛嫌いした母親への嫌味がこめられた一言です。
エドワード七世が統治した第一次大戦前夜の時代は、明るく開放的な「エドワード朝時代」として記憶されることになります。

こののちイギリスは、二度の世界大戦と植民地の独立によって、「日の沈まない帝国」としての役割を終えます。
かくしてヴィクトリアの統治していた19世紀こそ、大英帝国全盛期でした。

その象徴であったヴィクトリアは、輝かしい女王として人々の記憶に残り続けるのです。

小檜山青/記

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参考文献



意外と優しい!? 織田信長さん


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