天平宝字元年(757年)7月4日は、橘奈良麻呂の乱が発覚した日です。
「起きた」ではなく「バレた」日というのが、この事件のミソだったりします。
というより、奈良麻呂にミソがついたというべきでしょうか。
遠因はもう少し前の時代にあるので、この日から14年ほど遡ったところから振り返ってみましょう。
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孝謙天皇が即位すれば藤原氏が有利になってまう
奈良麻呂の父・橘諸兄(もろえ)は、聖武天皇の治世に政権を担当していた人でした。
天然痘の流行により、政権の中枢にいた藤原四兄弟やその他の有力者がバタバタやられてしまったために返り咲いたのです。
「他に政務を行える公家がほとんどいなくなってしまったため」という消極的な理由ではありましたが、諸兄は大納言、次いで右大臣、左大臣という重役に就任。
その息子である奈良麻呂も着々と出世し、同時に野心も抱いていました。
しかし天平十五年(743年)、聖武天皇が難波(現・大阪府)へ行幸したとき、病で一時的に倒れてしまいます。
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当時、既に皇太子は聖武天皇の娘・阿倍内親王(後の孝謙天皇)と決まっていましたが、奈良麻呂はこれが面白くありません。
女性天皇は男系の血を引くことはもちろん、基本的に先代の天皇の皇后(未亡人)、もしくは生涯未婚のどちらかに限られます。
中継ぎにはなれても、女系にならないのはこのためです。
また、阿倍内親王の母親が藤原光明子(光明皇后)であることも奈良麻呂には気に入りません。
もしも阿倍内親王が即位したら、母方の親戚として再び藤原氏がのさばることが見えていたからです。
奈良麻呂は考えました。
「藤原氏がまたでしゃばってくるのも気に入らないし、女性天皇は他に候補がいないときの中継ぎにしかならない。それなら、直接男系男子に継承したほうがいいじゃないか」
当時、天武天皇の孫やひ孫にあたる男性皇族が何人もいたため、賛同者もそこそこいたようです。
黄文王の擁立を画策 しかし他貴族の賛同を得られず……
奈良麻呂は他の貴族たちにこんな計画を持ちかけます。
「黄文王(きぶみおう)に次期天皇をやってもらおう」
黄文王は天武天皇の長男・高市皇子(たかいちのみこ)の孫です。天武天皇から見ればひ孫ですね。
血筋としては問題ありませんが、父の長屋王が藤原氏との政争に敗れて自害したため、日陰の存在になっていました。
いずれにせよ、このときは他の貴族に拒否され、計画はポシャったのですが、奈良麻呂はそう簡単には諦めません。
そうこうしている間に聖武天皇が阿倍内親王に譲位し、女帝・孝謙天皇の世となります。
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同時に、天皇の母・光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が、皇太后のために新しく設けられた役所の長官になりました。
仲麻呂は、四兄弟の一人・藤原武智麻呂(藤原南家の始祖)の次男。奈良麻呂の懸念通り、藤原氏の台頭を予感させるものであります。
実際、仲麻呂は孝謙天皇からも厚く信頼され、急速に出世していきます。
一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄・奈良麻呂親子は落ちぶれていきました。
それでもやっぱり諦めきれない
恐れていた事態が起きたことに焦り、奈良麻呂は再び黄文王擁立計画を立てます。
しかし、このときもやっぱり共謀者にしようとした人が拒絶し、実現には至っていません。
孝謙天皇の治世が終わり間際になれば、また皇位継承者を決めなくてはならないわけですから、謀反などという荒っぽいことをしなくてもいいはずなんですけどねえ。
黄文王の生年は不明ですが、官歴からして孝謙天皇とさほど年は離れていなかったと思われるので、寿命のことから考えて焦ったのでしょうか。
でも、それならそれで黄文王の息子なり、別の男性皇族を擁立するなりすればいいはずですし……。
ともかくアヤシイ策動を続ける奈良麻呂。
父の諸兄にも不穏な動きがあったようで、聖武上皇に「橘諸兄が朝廷の悪口言ってました!」と密告されたことがあります。
聖武上皇は「まさか」と本気にしませんでしたが、諸兄は密告されたこと自体を気に病んで、辞職しました。その後、2年ほどして亡くなっています。
享年73ですから、寿命といえば寿命ですが……こんなに気の弱い人が、よく朝廷批判などしたものですね。
他人を攻撃するのは良くても、自分が言われるとダメージ受けるタイプだったんでしょうか。
それでも奈良麻呂は諦めず、大伴氏・佐伯氏に黄文王擁立を持ちかけ、両家ともにこれを拒否。
こんなに断られてまだ諦めないのもスゴイです。
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