20代半ばの彼女は、年齢よりはるかに若く見え、まるで少女のようでした。
強い意志を秘め、凛としていながらも優しげな顔立ちは、見る者を魅了。
虫も殺せないような若い女性が、その実、殺人犯だと知って人々は驚愕します。
1793年7月17日は「暗殺の天使」と呼ばれる彼女の命日。
なぜ暗殺者になってしまったのでしょうか、振り返ってみましょう。
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シャルロット・コルデーは三大古典詩人の子孫だった
シャルロットは1768年、フランスはノルマンディーにある下級貴族の家に生まれました。
父は長男でないこともあって、貴族といえども貧しく、狭い土地を耕し生きるのに精一杯。いつも不満を抱いていたのでした。
コルデ家は貧しくとも、三大古典詩人の一人・コルネイユの子孫にあたる血統です。
彼らは、それを誇りとしておりました。
13才で母と死別した彼女は、親戚のつてを頼り、妹とともに修道院に送られます。
裕福な家の娘ならば、修道院で教育を終えてそこを出て、結婚相手を探すことになるでしょう。
当時、シャルロットのような女性が結婚できるかどうかは、持参金と運次第です。
美貌と聡明さで知られることになるシャルロットですが、持参金がなければ結婚もままなりません。身よりのない貧乏貴族の娘は、一生を修道院で過ごさねばならない運命です。
何事もなければ、シャルロットはノルマンディーの修道院の片隅で、ひっそりとした人生を終えることになっていたことでしょう。
しかし時代は大きく動きます。
1789年、フランス革命が起こると、修道院は「国有財産」とみなされ、閉鎖されてしまったのです。
十年間を世捨て人のように過ごしながら、突如世界に放り出されたシャルロット。
彼女は父のもとに身を寄せることにしました。
革命の熱狂をカーンで眺めていた
修道院を出たシャルロットは、父のもとに身を寄せます。
貴族でありながらその恩恵を得られず、窮乏していた父は革命に大賛成でした。
そんな父とそりがあわなかったのか。
シャルロットはカーンの親戚の家に身を寄せることにします。
そこでシャルロットは、彼女なりに革命を理解しようとパンフレットを読みあさります。
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彼女が抱いていた国王への敬意は、次第に軽蔑へ……。
国王自体は悪い人ではないかもしれないけど、弱くて頼りない——そう考えるようになったのです。
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シャルロットはある食事の席で、「国王陛下に乾杯!」と言われた際に乾杯を拒否して、同席した人と口論になっています。
「私は共和主義者なのだ。そして弱い国王をもはや尊敬してなどいない」
シャルロットはそう確信するようになりました。
時代はやがて、悲劇に突き進んでゆきます。
恐怖政治によって多くの処刑者が出て、フランス国内は内戦に突入するのです。
まさに大量流血の時代。
コルデ家の人々も、シャルロットの兄と弟は国外に亡命しました。父と妹も、田舎で息を潜めて暮らすことを選んでいます。
ただ一人、シャルロットだけは違いました。
彼女は、ジロンド派が拠点としたカーンの街で、じっと歴史の流れを見つめていたのです。
ジロンド派vsジャコバン派
カーンを本拠地としたジロンド派は、フランス革命において比較的穏健な立場の一派でした。
彼らはまとまりに欠くところがあり、次第に過激なジャコバン派によって糾弾されることになります。
政治闘争に敗れたジロンド派の人々は、1793年5月末から6月はじめにかけて大量に追放・逮捕され、壊滅状態にまで追い詰められます。
しかし、追い詰められたのはパリのジロンド派だけでした。
地方でのジロンド派はまだまだ多数。
彼らの意向を無視して勝手に政治闘争を繰り広げるパリに、地方は反感を抱いていました。
「ジロンド派の議員だって地方の代表だぞ! パリのやり方はあまりにひどい!」
憤激した地方都市は、中央のジャコバン派に叛旗を翻します。
カーンもそんな都市のひとつでした。
パリから追放された、あるいは逃げ出してきたジロンド派の議員たちが、カーンにたどり着きます。
シャルロットはいわば都落ちしてきた彼らと交流するうちに、次第に幻滅を抱くようになりました。捲土重来を期するものかと思っていたのに、彼らは行動を起こそうとしません。
「ならば、私がマラーを殺す!」
『えっ? なになに、突然どうしたの?』と、彼女の突飛な発想に、一瞬引かれる読者さんも多いでしょう。
シャルロットの言うマラーとは、ジャコバン派の実力者です。
それを自ら殺すだなんて、なぜここまで発想が飛躍してしまったのでしょうか?
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