明治30年(1897年)8月24日は陸奥宗光が亡くなった日。
伊藤博文が総理大臣をやっていた頃の外務大臣で、不平等条約を解消した手腕は「カミソリ大臣」と呼ばれました。
となると頭脳キレッキレな印象があるかもしれません。
実はこの人、生涯そのものがかなりエキセントリックだったりします。
早速、生まれから振り返ってみましょう。
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竜馬や桂、伊藤とも交流を持ち
彼は奥州伊達家の分家の分家のような立ち位置に当たる、駿河伊達家という紀州(和歌山)藩の家に生まれました。
当初の名前は「伊達陽之助(ようのすけ)」ですが、宗光で統一しますね。
時代が時代でもあり、父の影響で尊皇攘夷思想に傾いていったのですが、そのトーチャンが失脚してしまったため、一家は困窮するハメになります。
こんな経緯だと、さぞかし食うや食わずで苦労したんだろう……と思いきや、息子を江戸へ勉強に出したり、その宗光が吉原に通っていたりするので、その日のメシに困るような生活というわけではなかったようです。
家財か着物を売ったか質に入れたのかもしれません。ただ、その金で女遊びしたらいかんやろ。
この頃と思しき写真に頭巾を被った姿の宗光(TOP画像参照)が移っているのですが、万が一、こんな格好で吉原へ行き来してたら、もう何も言えねぇ!
こうして別の方面に励んでいたことがお師匠様にバレ、見事に破門。
宗光はあまり気にしなかったのか。
次に水本成美という別の先生について勉強を再開しています。切り替え早すぎ。
ここで坂本龍馬や桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文と知り合うことになるので、日本の将来的には結果オーライということですね。
高杉晋作といい宗光といい。
なんだか伊藤博文の周辺ってエキセントリックな人が多すぎませんか。
ご本人も花柳界とかフグの逸話からしてアグレッシブですけど。
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龍馬と仲良し 暗殺に激高
宗光は特に龍馬と親交が深く、一時期はずっと行動を共にしていました。
それだけに親友が暗殺されたときの怒りは激しく、紀州の一藩士だった三浦休太郎という人物に対し「お前が俺のダチを殺ったんだろそうに決まってるこの野郎!!」(※イメージです)という思い込みで、休太郎の滞在先を襲撃しています。
以前、紀州藩と竜馬の間でイザコザがあったため「竜馬暗殺の黒幕は紀州藩である」との噂が流れていたので、アヤシイといえばアヤシイ相手なんですけどね。
とりあえず落ち着けと。
※暗殺犯は、黒幕が松平容保で、実行犯は京都見廻組・今井信郎だと目されています
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しかしキレるのは堪忍袋だけではなく頭脳も素晴らしかったので、倒幕後、明治政府に人が必要になった頃、宗光は岩倉具視によって中央へ呼び出されます。
「ちょっと戊辰戦争のアレコレでメリケン(アメリカ)にお金払わなきゃいけないんだけど、アテがないから走り回って集めてくれ」
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その額なんと十万両。宗光は大阪商人たちの間で交渉を重ね、一晩で借り受けることに成功します。
もはやイリュージョンです。一体何をどうやったんだ。
綱渡り人生&「選択と集中」の鬼
こうして中央での政治に入っていくと、
「おまえ、薩摩だからなぁw」
「そっちこそ長州のくせにwww」
だのなんだのと言い続ける他のメンバーに嫌気が差して出奔。
実家の和歌山で静かな生活をしようとしましたが、最初の奥さんが亡くなってしまうなど相変わらずバタバタしていました。
翌年すぐ再婚してるんですけどね。ホント切り替えの早い人だ。
その後、政界に復帰。
今度は西南戦争で反政府側と繋がっていたためお縄になってしまいます。本当に綱渡りの好きな御方です。
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しかも、塀の中でもせっせと妻へのラブレターや本を書いたりと全く悔恨の兆しが見えません。
前しか見ないタイプだったんでしょうか。ここまで来るといっそ清々しいほどで、マジで見習うべきかもしれません。
特赦によって少し早く牢獄から出ると、何故かその後はヨーロッパへ留学。
伊藤博文が勧めたらしく、渡欧後の宗光は「西洋に追いつけ追い越せ」という言葉のままに猛勉強を開始します。
「選択と集中」の鬼ですね。
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