幕末・維新

カミソリ大臣・陸奥宗光が不平等条約を解消!見た目のクセも強めな53年の生涯

明治30年(1897年)8月24日は陸奥宗光が亡くなった日。

伊藤博文が総理大臣をやっていた頃の外務大臣で、不平等条約を解消した手腕は「カミソリ大臣」と呼ばれました。

となると頭脳キレッキレな印象があるかもしれません。

実はこの人、生涯そのものがかなりエキセントリックだったりします。

早速、生まれから振り返ってみましょう。

こちらは陸奥宗光と家族(左が妻の亮子で右下が長男の広吉)/wikipediaより引用

 


竜馬や桂、伊藤とも交流を持ち

陸奥宗光は奥州伊達家の分家の分家のような立ち位置に当たる、駿河伊達家に生まれました。

紀州藩(和歌山)に仕えていた一族で、当初の名前は「伊達陽之助(ようのすけ)」ですが、宗光で統一しますね。

時代が時代でもあり、父の影響で尊皇攘夷思想に傾き、その父が失脚すると一家は困窮。

こんな経緯だと、さぞかし食うや食わずで苦労したんだろう……と思いきや、息子を江戸へ勉強に出したり、その宗光が吉原に通っていたり。

家財か着物を売ったか質に入れたのかもしれませんね。

若い頃の写真で「頭巾を被った姿の宗光」が残されていますが、

紀州藩士時代の陸奥宗光/wikipediaより引用

万が一、こんな格好で吉原へ行き来してたら、もう何も言えねぇ!

実際、こうして遊んでいたことはお師匠様にバレ、見事に破門。

宗光はあまり気にしなかったのか。

次に水本成美という別の先生について勉強を再開しています。切り替え早すぎ。

ここで坂本龍馬や桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文と知り合うことになるので結果オーライということですかね。

高杉晋作といい宗光といい。

なんだか伊藤博文の周辺ってエキセントリックな人が多すぎませんか。

ご本人も女遊びのヤバさがたびたび指摘されておりますし。

女好きがもはや異常レベルの伊藤博文|女を掃いて捨てる箒(ほうき)と呼ばれ

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龍馬と仲良し 暗殺に激高

宗光は特に龍馬と親交が深く、一時期はずっと行動を共にしていました。

それだけに親友が暗殺されたときの怒りは激しく、紀州の一藩士だった三浦休太郎という人物に対し「お前が俺のダチを殺ったんだろ、そうに決まってるこの野郎!!」(※イメージです)という思い込みで、休太郎の滞在先を襲撃しています。

以前、紀州藩と竜馬の間でイザコザがあり、「竜馬暗殺の黒幕は紀州藩である」という噂が流れていたので、アヤシイといえばアヤシイ相手なんですけどね。とりあえず落ち着け、と。

※暗殺犯は、黒幕が松平容保で、実行犯は京都見廻組・今井信郎だと目されています

坂本龍馬・上野彦馬が長崎に開業した上野撮影局で撮影/wikipediaより引用

しかしキレるのは堪忍袋だけではなく頭脳も素晴らしかったので、倒幕後、明治政府に人が必要になった頃、宗光は岩倉具視によって中央へ呼び出されます。

「ちょっと戊辰戦争のアレコレでメリケン(アメリカ)にお金払わなきゃいけないんだけど、アテがないから走り回って集めてくれ」

その額なんと十万両。

宗光は大阪商人たちの間で交渉を重ね、一晩で借り受けることに成功します。

もはやイリュージョンです。一体何をどうやったんだ。

 

綱渡り人生&「選択と集中」の鬼

こうして中央での政治に入っていくと、

「おまえ、薩摩だからなぁw」

「そっちこそ長州のくせにwww」

だのなんだのと言い続ける藩閥政治に嫌気が差して出奔。

実家の和歌山で静かな生活をしようとしましたが、最初の奥さんが亡くなってしまうなど相変わらずバタバタしていました。

翌年すぐ再婚してるんですけどね。ホント切り替えの早い人で、その後、政界に復帰。

今度は西南戦争で反政府側と繋がっていたためお縄になってしまいます。

フランス紙に描かれた西南戦争時の西郷軍/wikipediaより引用

なんだか綱渡りも好きな御方で……塀の中でもせっせと妻へのラブレターや本を書いたりと全く悔恨の兆しが見えません。

前しか見ないタイプだったんでしょうか。

ここまで来るといっそ清々しいほどで、マジで見習うべきかもしれません。

特赦によって少し早く牢獄から出ると、何故かその後はヨーロッパへ留学。

伊藤博文が勧めたらしく、渡欧後の宗光は「西洋に追いつけ追い越せ」という言葉のままに猛勉強を開始します。

「選択と集中と切り替え」の鬼ですね。

 


藩閥をこえて実力で抜擢

二年の留学から帰国すると、陸奥宗光はいよいよ外交官として働き始めます。

まずはメキシコとの間で日本初の平等条約を締結。

意外に日本とメキシコって縁が深いんですよね。

その後、衆議院議員や農商務大臣(現在の農林水産大臣+経済産業大臣みたいな仕事)を歴任しており、農商務大臣の頃にはあの足尾銅山鉱毒事件も起きています。

足尾銅山鉱毒事件で天皇に直訴した田中正造/国立国会図書館蔵

このとき宗光は、積極的に動いていません。当時の総理大臣・山県有朋に何か言っていれば、もう少し早く対策が取られていたかもしれませんね。

外務大臣になったのは、意外にも?最晩年に当たる明治二十五年(1892年)のことでした。

ここから「カミソリ大臣」とまで呼ばれた宗光の辣腕が発揮されます。

各国との不平等条約の改正に動き出したのです。

・領事裁判権

・関税自主権

項目は上記の2つで、相手国はイギリス・アメリカ・フランス・ドイツなど計15カ国。

宗光はこの15カ国全員に不平等条約の改正を認めさせた功績でもって子爵の位を与えられ、教科書と歴史に名を残しました。

 

今際の際まで「あのバカタレどもが!」

その後も日清戦争の開始と終結(下関条約締結)にも大きく関わり、特に開始時はロシアやイギリスへ「口出ししないで中立でいてくれますよね」という約束を取り付けるなど活躍します。

しかし、彼が外交の最前線で働けたのはここまで。

いつの日からか肺結核を患っていたため、宗光は職を辞して療養生活へ入らざるをえなくなります。ただ……。

国内の別荘はともかくハワイまで行ってるのはどうなのよ?

やっぱりツッコミたくなってきます。

どう考えても長旅な海外より、国内で養生したほうがいい気がするんですが。まぁ、こればっかりはその人次第ですね。

当初、兵庫で療養していたら、枕元で下関条約へのイチャモン(ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉)についての相談をされたらしいので、イヤになって遠くへ行ったんでしょうか。

病床での閣議と長距離移動、雑誌発刊のどれが堪えたのかはわかりませんが、外務大臣を辞職した翌年に彼は亡くなります。

享年53。

まだまだ活躍できたはずの年齢でした。

陸奥宗光/wikipediaより引用

かつてキレて政府を出て行った原因である藩閥政治はまだ改善されておらず、今際の際まで「あのバカタレどもが!」(超訳)と嘆いていたそうです。

宗光と同様、藩閥をくだらないものと考えていた西園寺公望も「陸奥があの世に行く代わりに、藩閥のアホどもが(ピー)すれば良かったのに」(超訳)というようなことを言っています。

いろいろツッコミどころの多い人ではあります。

しかし、国家の大事というときに出身地でガタガタ喚くより、はるかに必要な人物であったことは間違いないでしょう。


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【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon
陸奥宗光/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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