慶長20年(1615年)5月28日は戦国武将・片桐且元が亡くなった日です。
【賤ヶ岳の七本槍】に数えられるため、いかにも豊臣秀吉に恩顧の深い印象もありますが、実際は、非常に気の毒なポジションに置かれた方でして。
直前に行われた家康との交渉で鍵を握らされていたのが片桐且元でした。
徳川との交渉では、一体どんな話し合いが行われたのか?

片桐且元/wikipediaより引用
関ヶ原の戦い前後の流れも併せて振り返ってみましょう。
七行でまとめる豊臣家vs徳川家の決着
関ヶ原の戦いは西暦で1600年。
対する大坂の陣は、冬が1614年で夏が1615年です。
まずは、前後の経緯をざっくりと確認しておきますと……。
①慶長五年(1600年) 関ヶ原の戦い
↓
②慶長八年(1603年) 家康が征夷大将軍になる・千姫が豊臣秀頼に輿入れ
↓
③慶長十年(1605年) 家康、徳川秀忠に征夷大将軍を、秀頼に右大臣を譲る
↓
④慶長十六年(1611年) 後水尾天皇即位のお祝いに合わせ、家康が二条城で秀頼との会見を申し込む
↓
⑤慶長十九年(1614年) 方広寺鐘銘事件→大坂冬の陣
↓
⑥慶長二十年(1615年) 大坂夏の陣
↓
⑦慶長二十一年(1616年) 家康死去
日本史の重要な出来事の中でも、
「慶長という年号の間にかなり大きな出来事が2つも始まってケリがついた」
というのは、なかなか珍しい気がします。
年数で見ると16年間ですから、決して短くはないんですけどね。
何となく話の流れがわかったところで、もう少し細かい話に入りましょう。
徳川の実権がキッチリ長く続くように
「家康は関ヶ原の戦いで勝ってから、トントン拍子に幕府を開いて豊臣家を滅ぼした」
そんなイメージをお持ちかもしれませんが、実際はかなりの手間をかけています。
なぜか?
家康は「誰の目にも正当な方法で、自分の子孫が実権を握り続けることができる仕組みを作りたかったから」かと思われます。
そのためには、できるだけ穏便かつ確実な方法で、豊臣家から政権を完全に譲り受けなければなりません。
関ヶ原の時点では、実権はともかく、名目上は家康が秀頼の家臣。

豊臣秀頼/wikipediaより引用
ここで主筋の秀頼をすぐに処分しては、世間や朝廷から「元からそのつもりだったのか」と後ろ指を差されてしまうわけです。
仮に、そこで豊臣家から政権を強奪しても、また別の家の誰かに力尽くで奪われ、戦国時代が延々と続いてしまうおそれがありますよね。
ですから家康は、「秀頼では武家のトップに立つのは無理だ」ということをわからせるため、14年間かけて徐々に態度を強めていきました。
その第一歩が、自ら征夷大将軍になったことです。
古来からこの官職は武家の棟梁がなるものとされていますから、勘が良い人であればこの時点で「もう豊臣家が武家の中心になるのは無理だ」と気付いたかもしれません。
当事者の豊臣家より、他大名たちのほうがよくわかっていたような感があります。
豊臣も公家ならば十分に生き残れた
「家康は何が何でも豊臣家を叩き潰すつもりだった」というイメージが強いですが、そうとも限りません。
秀吉は武家の職である征夷大将軍ではなく、公家の職である関白になっていました。
ゆえに「公家として豊臣家を残す」という手段はあったのです。
色々と面倒はあるものの、豊臣家側にその気があれば、家康も乗ったでしょう。
それができなくなったのは、豊臣家に駆け引きができる人材がいなかったからではないでしょうか。
家康が、秀吉存命中からの約束である孫の千姫輿入れを予定通り行ったのは、
「そっちがきちんと対応してくれるなら、豊臣家をないがしろにするつもりはない」
というアピールだったはず。

豊臣秀頼(右)と千姫/wikipediaより引用
征夷大将軍になって、わずか二年で秀忠に継がせたことも、世襲制をアピール。
「もう秀頼は武家のトップにはなれないんだから、ちょっと退いてくれ」
それを暗に示すつもりだったと思われます。
ここで豊臣家から何かしらのアクションがあって和解できていたら、豊臣家は公家としてずっと続いたかもしれませんね。
そしてそうなっていれば、あの方広寺鐘銘事件はなかったかもしれません。
方広寺鐘銘事件のとき家康はすでに71歳
方広寺鐘銘事件とは……。
「お寺の鐘に国”家”安”康”って刻んだそうですね? ワシの名前をぶった切るなんて呪詛ですか?」(超訳)
上記のように家康が豊臣家に迫ったとき、年齢は既に71歳でした。
現代であれば「もっと長生きしてね」という歳ですが、当時としてはいつ亡くなってもおかしくない年齢です。
家康は自分が死んだ後、秀忠が豊臣家をうまく処分できるとは考えていなかったのでしょう。
そんなタイミングで豊臣家から挑発的なことをされたので、さすがに黙っていられなくなったのが方広寺鐘銘事件の実情ではないでしょうか。
当時の「呪詛」というのはシャレでは済まされません。
そして、このとき駿府へ弁明にやってきたのが片桐且元だったのです。
前述の通り、賤ヶ岳の七本槍に数えられる秀吉恩顧の武将でした。
【賤ヶ岳の七本槍(当時の年齢)】
加藤清正(22才)
福島正則(23才)
加藤嘉明(21才)
脇坂安治(30才)
片桐且元(28才)
平野長泰(25才)
糟屋武則(不明)
片桐且元は、父が北近江の国衆・片桐直貞で、秀吉の長浜城時代に弟の片桐貞隆と共に傘下へ入りました。
同僚が石田三成や大谷吉継、脇坂安治など。
このときは生粋の豊臣メンズなわけですね。

石田三成/wikipediaより引用
彼等は主に「計数の才」を得意とし、兵糧や武器弾薬の手配や太閤検地など、槍働きよりも数字で政権を支える若手官僚のような存在でした。
しかし且元は、家康にとっても微妙な立場ながら重要な人材でありました。
彼は豊臣秀頼を支えるポジションであり、同時に家康とも通じてその意を豊臣に伝える役割もこなせたため、関ヶ原の戦い後に所領も与えられています。
他ならぬ方広寺大仏殿の普請奉行を務めたこともあり、適任と言えば適任でもありました。
※ついでに言うと片桐且元は出雲大社の造営奉行を務めたりもしています
片桐の意見として淀殿に譲歩案を提示するも
兎にも角にも、駿府へやってきた片桐且元。
家康は直接会わず、代わりに側近の僧侶が「呪いじゃないならそれなりの誠意を見せてよ^^」(※イメージです)という空気だけを匂わせました。
個人間だったら確実に嫌がられる対応ですが、政治的なやりとりでは定石というか、腹を探らせるやり方ですね。
家康の言わんとすることを察した且元は、あくまで私見として、秀頼と淀殿に対応策を提案しました。
具体的には以下の三案となります。
「秀頼が大坂城から出る」
「秀頼が江戸へ参勤する」
「淀殿を人質に出す」
戦国時代であれば珍しくない話です。
しかし且元は、淀殿という人間を理解しきれていませんでした。
秀吉存命中に「天下人の跡継ぎの母」として絶対的な地位になった淀殿には、今さら自分と息子が誰かの下になることなど考えられなかったのです。
淀殿は、織田信長の妹・お市の方の娘(浅井三姉妹の長女)であり、秀吉お気に入りの側室でしたから。
大坂城を退いた且元 かくなる上は武力行使やむなし
また、淀殿と同じように、
「豊臣家は家康の家臣ではない!」
と考える人々も、且元の提案を断固拒否しました。
だからこそ
【豊臣家を救いたい!】
という譲歩案を提出した且元に対し、豊臣家内は冷ややかな対応をするようになり、弟の貞隆も大坂城内で孤立。
結局、片桐且元と貞隆の二人は、貞隆の居城である茨木城(現・大阪府茨木市)へ退かざるを得なくなります。
家康としては、且元が自分の意向に気づき、何らかの手を講じると考えていたでしょう。
豊臣家に引いて貰えれば、それで政権は安定し、完全に滅してしまう必要もないワケです。
しかし、その且元が大坂城から出てしまっては、もはや
・豊臣家に
・家康の真意を理解する人間がおらず
・話し合いは成立しない
ことを意味します。
後任のようなカタチで大野治長兄弟などがおりましたが、家康自身の寿命を考えれば、もうこれ以上の猶予はありませんでした。

徳川家康/wikipediaより引用
大坂の陣直後に且元死す
もはや大坂へ攻め込むしかない――。
関ヶ原の戦い(1600年)から、この交渉までにかけた時間と比べ、方広寺鐘銘事件(1614年)から大坂冬の陣(1614年)までの時間は極めて短いものでした。
なんせ発覚したのが同年夏で、その2ヶ月後の10月には、家康自身が軍を率いて駿府を出ているのです。
おそらく片桐且元を大坂へ帰した時点で、家康は「この冬までに良い反応がなければ、武力行使もやむなし」と決めていたのでしょう。
豊臣家は豊臣家で、方広寺鐘銘事件の前から浪人や兵糧を集めていました。
上方でも「いつ戦になるかわからない」といった噂が流れていたようです。
石田三成はかなり前に処刑されていましたが、この辺の豊臣側の動きは三成とよく似ているというか、
「こう動いたら、世間や家康・幕府はどう思うか」
「それが自分たちにとってどんな影響を与えるか」
という視点が欠如している気もします。
家風といえばそれまでですけれども、もうちょっと良い形で危機を乗り越える方法もあっただろうな……と思えるだけに、残念なことです。
もしもこのとき、豊臣家が柔軟な姿勢を見せていたら?
豊臣家に味方した大名や武将も、現在よりは多く生き残れていたかもしれません。

大坂夏の陣図屏風/wikipediaより引用
なお、片桐且元は大坂夏の陣で家康方につき、自身の藩(竜田藩・初代藩主)を残しはしましたが、当人は豊臣家滅亡からわずか20日ほど後に亡くなっています。
死因については病死とも自害とも……。
なんとも切ない終わりになってしまいました。
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参考文献
- 『国史大辞典』(吉川弘文館, 1979–1997年刊, 全15巻17冊)
出版社: ジャパンナレッジ(吉川弘文館 公式デジタル案内) - 峰岸純夫/片桐昭彦(編)『戦国武将合戦事典』(吉川弘文館, 2005年3月, ISBN-13: 978-4642013437)
書誌情報: 吉川弘文館(公式商品ページ)|
Amazon: 商品ページ - 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(学習研究社, 2009年10月, ISBN-13: 978-4054042902)
出版社: Gakken(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕―天下人をめぐる群像劇』(SBクリエイティブ〈SB新書〉, 2013年9月, ISBN-13: 978-4797374254)
出版社: SBクリエイティブ(公式商品ページ) |
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