1月25日(日)に放送された大河ドラマ『豊臣兄弟』第4回は「桶狭間!」のサブタイトル通り、桶狭間の戦いが描かれました。
永禄三年5月19日(1560年6月12日)に勃発したこの合戦。
ドラマでは今川義元の首を取った毛利新介ではなく「簗田政綱(やなだまさつな)こそ一番の手柄である」と織田信長から直々に褒められていました。
なぜ、そのような判断が下されたのか?
合戦の流れが非常にややこしかったので、今回のレビューはドラマでの戦の流れに沿って進めさせてください。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
重要拠点を図解で確認
まず、前提を確認しておきたいと思います。
桶狭間の戦いが起きる少し前、尾張の状況はどうなっていたのか?
と申しますと、以下のように沓掛城まで信長の支配域は及んでおりました。

それが味方の裏切りと調略により、沓掛城・鳴海城・大高城の3城が一気に今川方となってしまいます。

熱田神宮より南東側の勢力図が一気に塗り替えられたのですね。
織田家としては大ピンチであり、信長は鳴海城と大高城を取り戻すべく、その周囲に5つの砦(付城)を設置します。
その拡大地図が以下の通り。

砦はいつ設置されたのか?
と申しますと、詳細時期は不明ながら、信長が尾張の大部分を支配することになった永禄二年(1559年)の夏以降と想定されます。
ドラマでいうと、第3回放送で岩倉城を攻め、織田伊勢守を追い出した後のことですね。
◆今川方の鳴海城に対して
→信長は丹下砦・善照寺砦・中島砦を設置
◆今川方の大高城に対して
→信長は鷲津砦・丸根砦を設置
もちろん今川義元も黙ってはいられません。
鳴海城と大高城を救済し、尾張の支配を固めるため進軍を開始。

絵・富永商太
それが永禄三年(1560年)5月のことであり、大きな視点で見れば「桶狭間の戦い」の始まりでした。
以上が前提の話。
では、今川軍の進行に対し、ドラマの小栗信長はどのように対応していったか?
重要ポイントとなる佐久間盛重や簗田政綱はどんな行動をしたのか?
本作では、後からタネ明かしされるスタイルのため時系列がややこしくなっており、理解しづらかったようにも感じます。
そこで本記事では、豊臣兄弟や城戸小左衛門のイザコザはさておき、続けて、合戦の流れを見て参りましょう。
徳川に降伏した簗田がなぜ?
徳川家康(松平元康)が大高城への兵糧入れに成功すると、今川軍は鷲津砦と丸根砦への攻撃を開始しました。
北の善照寺砦には、3000の織田軍が集合。
図解で見ると、以下の状況ですね。

家康が攻撃したのは丸根砦であり、皆さんが気になっていたのが、その丸根砦を守る佐久間盛重の動向でしょう。
前3回放送でも打ち明けていましたように、盛重は、いざ徳川の攻撃が始まると、今川方への裏切りを決意。
側にいた簗田政綱に寝返るよう告げます。
そして、この瞬間が、第4回放送最大の転換ポイントになりました。
ドラマでは終盤のタネ明かしで初めて視聴者に明かされますが、簗田は事前に信長から密命されていたようで、裏切りを画策する佐久間盛重を背後から刺殺すると、家康方へその首を差し出しながら降伏するのです。
不思議なのは、その後の簗田の動向でした。
簗田も家康に捕らえられ、ヘタすりゃ斬られてしまうのでは?と思いましたが、実際は、佐久間盛重の首が今川方の本陣へ運ばれるのをこっそり追跡・確認していました。
そして簗田は、義元が1万の兵を鳴海城へ送り、本陣の兵数が手薄になるのを確認すると、忍びの者を織田信長のもとへ遣わせ、その様子を報告させたのです。
ゆえに、これぞ一番の手柄!というわけですが……なぜ簗田はそこまで自由に動けとるんじゃ???
事前に家康へ書状でも送り、身の安全を担保しておいたのでしょうか。
それでも「本気で寝返ったのか?」と怪しまれる可能性はありましょう。
簗田は、確かに自らの目で今川軍の動きを確認していました。
しかし、盛重の首がすぐに今川の本陣へ運び込まれる保証もないわけで、ヘタすりゃ梁田政綱も佐久間盛重も無駄死にで終わってしまいます。
小栗信長は「盛重の首が義元の居場所を教えてくれたのじゃ!」と自信満々でしたから、そこはもうしゃーないですね。
では、肝心の戦本番へと進みましょう。
城戸小左衛門を弓で狙うも
梁田政綱の働きにより、敵本陣の位置を探り当てた織田軍は、鉄砲を藁で防水加工しながら進軍。
大雨が降る中、桶狭間山の麓へ参ります。
『信長公記』に「楠の大木が倒れるほどの豪雨」と記されているように、桶狭間では戦の直前に凄まじい雨が降り、いざ合戦が始まるときには晴れていました。
ゆえに小栗信長率いる織田軍も鉄砲を放つことができたという設定ですね。
白マフラーの大鶴義元は「なぜ我が軍の鉄砲は使えないのじゃ!」と悔しがりますが、後の祭り。
暴れん坊・城戸小左衛門のパワーにより、今川軍の防御柵も崩されると、織田軍がどっと流れ込みます。
城戸小左衛門は確かに強い。
性格悪くても豪語するだけの強さがある。

しかし乱戦だけに隙もできたのでしょう。秀吉が弓を構え、父の仇討ちのため、その背後を狙います。
と、秀長が飛んできて「兄者、止めるんじゃ!」と制止しました。
やはり大河の主人公たちが、そんな姑息なことは止めて欲しいもので。
秀長の本心は、城戸小左衛門が生きていたほうが、自分たちも生き残れる可能性が高いとのことですが、そんな兄弟トークをしている間に敵が襲ってこないか?と心配にもなってしまいます。
案の定、二人に襲いかかる敵が現れると、腹に槍がぶっ刺さり、そのまま倒れてしまいました。
いったい何が起こった?
槍を投げ、救ったのは城戸小左衛門でした。
本人は、兄弟を狙ったと悪態ついています。本当は助けようとした? そんな風に見えなくもないですが、ドタバタとしていて真意はわかりません。
その直後、城戸小左衛門は背中に矢を受け、胴体を刺されてしまったので、いよいよ何もわからず死んでしまうのです。
最後はいい奴設定になるのかと思っていましたので、呆然とするばかりでした。
毛利新介が義元を討つ
義元の本陣へ襲いかかる織田軍は勢いを増していきます。
『信長公記』では、今川軍もただ単に逃げ惑うだけでなく、数度にわたって織田軍の攻撃を跳ね返し、粘り強く義元を守ろうとしていたとされます。
しかし、当初300いた旗本は次々に倒されてゆき、最後は50程まで減り、毛利新介に討ち取られたのでした。
最初に、義元へ斬り掛かったのは服部小平太と伝わりますが、ドラマでは一気に毛利新介が倒したように見えましたね(というか二人の容姿がそっくりで区別つかず……)。

今川義元に襲いかかる毛利新助と服部小平太(作:歌川豊宣)/wikipediaより引用
「今川義元の首、討ち取ったり! 我らが勝利じゃ、大勝利じゃー!」
新介がそう叫ぶと、歓喜に湧く織田軍の将兵たち。
こうして桶狭間の戦いは織田軍の勝利で幕を閉じました。
帰りの道中、信長が天運に恵まれいてる!とはしゃぐ兄に対し、いや、信長様がどれだけ凄いか、と秀長が語ります。
・敵を領内におびき寄せたこと
・佐久間盛重の首が運ばれるのを見越して義元の居所を突き止めたこと
・敵を油断させ大軍を2つに分かれるよう仕向けたこと
いずれも一つずつ吟味してみると困難な条件であり、これが計算尽くなら、まるで全知全能の軍神……。
特に今川義元が、1万もの軍勢を鳴海城へと差し向けたのは驚愕でしょう。
大高城と鷲津砦、丸根砦まで落としているのですから、いったんは全軍でその3拠点に入り、人馬を休ませるのが自然だと思うんですよね。
NHK『英雄たちの選択』では、発掘調査から今川軍はまず大高城を目指していたと解説されていました。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用
ちなみに『麒麟がくる』では千、二千単位で敵部隊の数や位置を推察し、今川義元の本陣には数千との見積もりで「これなら戦える」と染谷信長は判断。
『信長公記』では、今川軍に襲いかかった信長が、途中で義元の塗輿に気づき、「旗本はあそこじゃ!」と攻撃を続けています。
その記述から、義元の居場所などわかっていなかった可能性がうかがえます。最初は今川軍を攻撃すること自体が目的で、途中から義元の首狙いにしたのではないでしょうか。
まぁ、時間に制約のあるドラマで劇的な勝利を魅せるには、今回の流れがベストと判断されたのでしょう。
ただ、徳川家康が最後まで飯を食い続けたのは……ちょっと、わけわからんす……。
大高城を出て、岡崎城まで戻る途中、自害まで考えたという家康像の方が、松下洸平さんに合ってません?
首実検で「銭をください」
桶狭間の戦い翌日、清洲で首実検が行われました。戦で討ち取った首をもとに褒美の検証などが行われるのですね。
藤吉郎は「秀吉」の名を与えられ、足軽組頭に出世。
弟の秀長は、信長の近習に命じられますが、これを断り「兄に従い、兄と共に殿に仕えたい」と申し出ます。
※史実の秀長は当初、信長の馬廻衆、つまり秀吉の家臣ではなく信長の直臣でした
すると突然、信長の回想シーンとなり、
信長の寝所に現れた弟の織田信勝が柴田勝家に背後から斬られる
というナゾ展開――なんじゃ、こりゃ!
織田信長が弟の織田信勝(信行)を誅殺したのは戦国ファンにはよく知られた話。
『麒麟がくる』でも描かれましたが、何も知らない視聴者はさすがに戸惑ったのではないでしょうか。
しかも織田信勝は二度目の裏切りを画策していたことが重臣の勝家から打ち明けられ、信長も仕方なく及んだという流れです。

柴田勝家/wikipediaより引用
重たい空気にどんより落ち込む信長に対し、秀長は言います。
「銭をください」
なんじゃ、そりゃ!
私の中で再び「長袖をください」、ダイアン津田の顔が浮かびます。
さすがに兄の秀吉も驚いていましたが、首尾よく50貫(およそ250万円ぐらい?)の褒美を確約し、さらには信長から高級草履を片方ずつ貰った兄弟。
◆豊臣期の「一文」の価値について(東京大学史料編纂所)※一文50円で計算
今後も要所要所でこのアイテムは使われるのかもしれません。
なお、今までの全3回放送で「お金に対する執着を隠さなかった秀長像」については、主人公だけに美徳とするのかと思っていました。
『麒麟がくる』の斎藤道三は「ワシはケチじゃが嘘はつかん」というスタンスで、単なる吝嗇家ではない人物像を魅せてくれたものです。
秀長については、お金に対する執着を「明るく堂々と示す」という開けっぴろげキャラで押し切るのかもしれません。
秀長は後に高利貸しで暴利を得ていたこともあり、普通の説明では難しい一面もあります。
ゆえに、わざと開けっぴろげキャラにしているのではないでしょうか。
史実の簗田政綱とは?
最後になりましたが、簗田政綱について。
史実ではどんな人物だったのか?という興味をお持ちになられたかもしれません。
桶狭間の戦いで一番の手柄!
織田信長にあれだけ派手に褒められているのですから、一体どんな事績が記録に残されているのか?という興味もお持ちでしょう。
実はこれが非常に心許ないものです。
まず「今川軍の背後をつけば義元を討てます」といった趣旨の発言が信長に褒められたことが『甫庵信長記』に書かれています。
同書は『信長公記』をもとに書かれた読み物ですが、『信長公記』に同様の記述はありません。
つまり創作の可能性が否めない。
江戸初期に成立した『備前老人物語』では、『甫庵信長記』をもとに簗田出羽守が「よき一言」を提言したおかげで織田軍が勝てたと記されています。
さらには明治時代になり成立した『日本戦史』では、その「よき一言」が拡大解釈され「簗田政綱の諜者(忍び・間者)が義元の本陣を突き止め、信長に奇襲を提案した」とまで成長しました。
しかし、他の適切な史料で、同様の記述は確認できないのです。
話の面白さなども手伝って大きく広がり、いつしかフィクションなどでも定番となっていったのでしょう。
よって、簗田政綱の事績について、史実とするには難しい状況です。
では桶狭間の戦いでは、何が織田軍の勝因となったのか?
最近は藤本正行氏の「正面突破説」が定説となりつつあり、例えばドラマの時代考証・柴裕之氏監修の『太閤記解剖図鑑』でもそのように指摘されています。
弊サイトでも藤本氏の「正面突破説」に則り、図解でまとめました。
よろしければ別記事「桶狭間の戦い」をご覧ください。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
藤本正行『【信長の戦い1】桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(2008年12月 洋泉社)
太田 牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)
柴裕之/かみゆ歴史編集部『太閤記解剖図鑑』(2025年11月 エクスナレッジ)
【TOP画像】織田信長(左)と今川義元/wikipediaより引用
