大河ドラマ『豊臣兄弟』の第9回放送は、菅田将暉さん演じる竹中半兵衛の話題でもちきりですね。
実際、存在感が凄いです。
仕掛け弓で危うく蜂須賀正勝を殺しかけたかと思えば、自ら「三顧の礼」を要求したり、一人で菩提山城への抜け道を完成させていたり、それでいて美濃三人衆に裏切られた斎藤龍興を救おうとする――。
常人ではないキャラ設定が次々に繰り出され、菅田将暉さんの圧倒的な存在感から目が離せなくなります。
だって、この半兵衛は次に何をしでかすか、気になっちゃうもんね!
しかしその一方で『史実の竹中半兵衛って、こんな人だったの?』という疑問も湧き、とりわけ「稲葉山城乗っ取り事件」や「稲葉山城の陥落」がよくわからんという方もいらっしゃったでしょう。

竹中半兵衛/wikimedia commons
今回はその辺を踏まえて、レビューを進めたいと思います!
半兵衛伝説「稲葉山城乗っ取り事件」
竹中半兵衛が天才軍師と評価される所以となった「稲葉山城乗っ取り事件」は永禄七年(1564年)に起きました。
桶狭間の戦いが永禄三年(1560年)。
稲葉山城陥落が永禄十年(1567年)ですので、ちょうどその中間に起きたんですね。
事件のあらましを一言でいえば、竹中半兵衛が舅の安藤守就(田中哲司さん)の助けを得て、わずかな兵で稲葉山城を乗っ取り、約半年間に渡って占拠していたというものです。
『はぁ? そんなもん伝説だろ? うそでしょ、ウソ!』
そう言いたくなるかもしれませんが、複数の記録が残されていて、特に注目したいのが快川紹喜(かいせんじょうき)の書状です。
◆快川紹喜の書状
永禄七年(1560年)2月6日、竹中半兵衛と安藤守就が金華山城(稲葉山城)を占拠した。
斎藤飛騨守ら6人が殺されたが、斎藤龍興や六人衆である日根野弘就、竹腰尚光たちは近隣の城へ無事に避難して、対峙をしている。
城下の人家は、立ち去る者たちによって焼かれてしまった。
竹中半兵衛と安藤守就たちに協力したものは義を持ち合わせていない恥知らずである。
快川紹喜とは、美濃の土岐氏に生まれた臨済宗の僧侶です。
斎藤義龍と揉めて武田信玄のもとに身を寄せるなど、当時から高名を馳せた人物であり、天正十年(1582年)に恵林寺で織田信長に焼き殺されるという非業の最期を遂げた人でもあります。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言葉でも有名な方ですが……ちょいと脱線しすぎですね。話を稲葉山城乗っ取り事件に戻しましょう。

後に岐阜城として知られる斎藤氏の稲葉山城は難攻不落の名城だった/wikimedia commons
信長「城を譲れば美濃半国をやる」
快川紹喜の書状を補足するようにして小瀬甫庵『太閤記』ではもう少し詳しく記されています。
それによると、稲葉山城に人質として預けられていた竹中半兵衛の弟・久作(竹中重矩)が病気になり、その見舞いと称して半兵衛が城へ向かい、斎藤飛騨守らを斬り倒すと安藤守就が2,000の兵を引き連れて城へ入ったという流れです。
なぜ半兵衛はこのような真似をしたのか?
よく知られているのが「私利私欲のためではなく、主君を諌めるためにやった」というものです。
斎藤龍興が、斎藤飛騨守などの佞臣(ねいしん・ご機嫌取りでイエスマンな家臣)ばかりを優遇して、

斎藤龍興・浮世絵(落合芳幾画)/wikimedia commons
国内の統治がおろそかになり、それを懸念して強行したというわけですね。
その証拠に「城を譲れ、さすれば美濃半国をやろう」という織田信長からの打診も断ったとされます。
実際に信長がそんな条件を提示したか?というのは怪しいのですが、何らかの打診はあり、いずれも断ったと考えられる。
いかにも美濃を愛する天才軍師像に合致しますね。
しかし、こうした見方に対しては反論もあります。
織田信長に半分譲っていたらどうなるか?という点については「人として信用されず、すぐに殺されるだろう」という展開が予測できる。
仮に半兵衛が天才で、なおかつ「では美濃の半分もらいます!」などと言ってしまう人物ならば、危険すぎてとても近くに居て欲しくないでしょう。そうなると信長も、殺られる前に殺ってしまうしかない。
半兵衛が天才であろうとなかろうと、そこに気付かないわけがない。
つまり自身の将来を考えれば、信長からの打診を断るのは当たり前で、義とかそういう類の話ではないというわけです。
ならばなぜ、こんな大事件を起こしたのか?
半兵衛「目立ちたいからやったった!」
竹中半兵衛が事件を起こした動機。
書籍『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず(→amazon)』を著した木下聡氏は、同著の中で「名誉欲」と「復讐心」では?と指摘しています。
・半兵衛は斎藤龍興やその側近に馬鹿にされていた
・世の中を驚かせるような大きな事をしたかった
こうした二つの心理が繋がり、事件を起こしたというのですね。
普通は計画を思いついても脳内にとどめておくものであり、いざ実行に移してしまうところが半兵衛の「非凡」な点だと見ています。
そんな半兵衛に協力した安藤守就の動機については、政治方針を巡って斎藤龍興ら首脳部と対立があり、自身の要求を訴えるためだったのでは?と指摘されています。
二人とも俗物的で、孤高の天才軍師像からは離れてしまいますね。
しかし、よほど人間味があって生々しいですし、菅田将暉さん演じる竹中半兵衛像にも近づいているかもしれません。

とにかく戦が好き。
戦術を考えたい。
菅田半兵衛はそんな性質であることを自認していて、綺麗事で隠そうとはしない。
だからこそ目が離せない人物像となり、ネットニュースなどでも数多くの記事が出ているのでしょう。
なんせ史実の竹中半兵衛は、11年後の天正六年(1578年)、豊臣秀吉や黒田官兵衛らと共に「三木の干し殺し」という三木城の包囲戦を始めます。
別所長治の守る三木城に将兵だけでなく周囲の百姓らも追いやって囲み、とことん飢えさせて、餓死させるのです。
この凄惨な戦術を主役の豊臣秀長とか朗らかキャラの蜂須賀正勝に発案させるのはキツいものがある。
そこで半兵衛の出番。
ドラマの中で小牧山城の模型を作っていましたが、三木の干し殺しでも、嬉々として包囲網全体を模型化する可能性を感じさせます。
史実の半兵衛はどうなっとる?
織田信長の生涯を記した『信長公記』には大河ドラマ『豊臣兄弟』の重要人物も当然登場します。
しかし、あくまで織田家や信長の動向にスポットを当てたものであり、竹中半兵衛の名が出てくるのはかなり時代が進んでから。
元亀元年(1570年)姉川の戦いで弟の竹中重矩(重隆)が登場し、半兵衛本人は天正五年(1577年)の中国攻めで、黒田官兵衛と共に福岡野城を攻略したことが記されています。
ただし、それ以前から秀吉と共に活躍していたことは間違いないでしょう。
史実では、遅くとも弟の名前が出た元亀元年(1570年)姉川の戦いや、それ以降の浅井攻めから活躍していたと考えられます。
美濃攻略を終えたドラマでは、今後、足利義昭を奉じての上洛があり、さらには浅井・朝倉や石山本願寺、長島一向一揆との壮絶な戦いへと突き進んでいきます。
竹中半兵衛が特に注目されるのは、浅井攻めでしょうか。
浅井の本拠地である小谷城を監視するため、秀吉は横山城の城番を任せられ、その留守を半兵衛が守っていたとされます。
そこで出番というわけですね。

浅井長政/wikipediaより引用
浅井長政から攻撃を受け、嬉々として敵兵を罠にはめたり。
防御施設が複雑に組み合わさった小谷城へ攻め入る際には、得意の模型を作って「ここを落とせば、あとは櫛の歯が抜けるように……」とニヤニヤしたり。
戦術マニアな一面がクローズアップされる一方、金ヶ崎の退き口では病弱であることを理由に別ルートで退避させられたりとか?……と、正直、半兵衛の登場ばかりを考えてしまいます。
でも、これって豊臣秀長の物語なんですよね……。
色々と取り返しのつかない直の死
序盤から、初恋相手・直とのやりとりが目立ってしまったせいか、今のところ「秀長が優秀である」という印象がありません。
そこも演出上の狙いなんですかね?
今回も、墓前で直の父と会い、土下座をしていましたが、彼女の死は取り返しのつかない大失態です。

直に、きちんとした護衛を複数つけておくか。
結婚の挨拶なんだから、どうにか一日都合をつけて、秀長自身も付き添って行くか(もちろん護衛もつけて)。
それほど難しくもないミッションを疎かにした結果が彼女の死であり、初恋のオリキャラを出してまで死なせてしまったことで、秀長の能力が高くない印象を植え付けられてしまいました。
寧々の性格が面倒くさいことから、視聴者からの人気が直に集中してしまったのも痛いですね。
今後、彼女の回想シーンが出る度に、秀長への失望感が大きくなってしまうのではないでしょうか。
もう一つ、秀長がいまいち賢く見えない点について。
とにかく叫びが多い――これも影響しているのではないでしょうか。
まだ何者でもない小一郎が色々と駆けずり回り、段々と成長していく物語ですから、若いうちに大声が出てしまうのは仕方がない。
ただ、それにしても、いつも叫んでいる印象なのです。
特に気になったのは、相手が話しているうちに大声で被せて黙らせるシーン。
実際にそういう場面が何度あったか数えてはいませんが、他人の話を遮って自分の言葉ばかりを主張していたら、誰もまともに会話してくれなくなる。
今回、菅田将暉さん演じる竹中半兵衛が話題になったのは、彼の演技力が素晴らしいのもありますが、物静かに淡々と解説してくれるところに魅力があったからのような気もします。思わず耳を傾けたくなる雰囲気なんですよ。
逆に、叫び声の連発って、何かを誤魔化そうとしているようにも見えるわけで。
すごく単純なことで余計なお世話ですが、秀長の描写にはそうした配慮が足りていない気がします。
稲葉山城から岐阜城へ
最後に、ドラマの締めくくりにもなった稲葉山城の陥落を見ておきましょう。
劇中でもそう描かれたように、美濃三人衆が織田家に降ったことで、稲葉山城は陥落となりました。
では、いったい織田信長はいつから美濃攻略を進めていたのか?

織田信長/wikimedia commons
『総見記』では永禄三年(1560年)桶狭間の戦い直後から、信長が美濃へ攻め込んでいますが、確実に本格化したと言えるのは翌永禄四年(1561年)5月13日からでしょう。
ハッキリと日付がわかるのは、斎藤義龍が死んだ2日後のことだからです。
跡を継いだ斎藤龍興が暗愚とされることから、義龍の死後に攻め込んだ……というよりも実際は「斎藤義龍が当主のころは迂闊に手を出せなかった」と見る方が的確かもしれません。
信長と気が合った斎藤道三。
その道三を死へ追いやった息子の斎藤義龍。
そんな風にイメージの悪い斎藤義龍ですが、統治能力は高く、側近の六人衆らと共に盤石の政権を築き上げていました。
美濃は、周辺の六角氏、浅井氏、朝倉氏との緊張関係から織田氏へ直接攻め込むことはなかったですが、信長の尾張統一を遅らせる工作を仕掛けていたとも目されます。
ゆえに義龍の死後もしばらくの間は織田軍に対しても盤石だったのであり、信長も長い時間をかけてようやく落とすことに成功しています。
その一部始終は別記事「なぜ信長は美濃攻略に7年以上もかかったのか?」に記しましたので、よろしければ併せてご覧ください。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
木下聡『斎藤氏四代:人天を守護し、仏想を伝えず』(2020年2月 ミネルヴァ書房)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(2025年11月 幻冬舎)
