大河ドラマ『豊臣兄弟』で注目されている四国の動向。
あれは一体どうなっているのか?
小栗旬さん演じる織田信長はやたらと凄むばかりで、対する四国の長宗我部元親も取次役の明智光秀にキレまくっているけれど、何がなんだか状況がよくわからないという方も少なくないでしょう。
なんせ、信長と四国の間で、さほどの接点があったとも思えません。
ゆえに、長宗我部元親がわざわざ信長の意向に従わなければならない理由も見えてこない。
いったい両者の関係や、四国の勢力図はどうなっていたのか?

長宗我部元親/wikipediaより引用
本記事では、織田家と長宗我部家の繋がりから、それまでの経緯を振り返ってみたいと思います。
土佐の国衆だった長宗我部氏
長宗我部氏は、最初から四国を支配していたわけではありません。
もともとは土佐中部・長岡郡を地盤とする有力国衆の一つでした。
それが元親の父・長宗我部国親の代にじわじわと勢力を伸ばし、永禄三年(1560年)に跡を継いだ元親が、本山氏、安芸氏といったライバルたちを次々と退けていったのです。
土佐一国の平定を成し遂げたのは天正三年(1575年)7月のこと。
「渡川の戦い」で土佐一条氏の一条兼定を破り、悲願の平定を成し遂げると、ようやく四国制覇を目指せる体制になったんですね。

一条兼定/wikipediaより引用
土佐を固めた元親は、阿波方面への侵攻を本格化させます。
四国東部の阿波と讃岐は、長らく三好氏の勢力圏でしたが、当時はすでに斜陽の勢力。
元親は、伊予方面の河野氏や西園寺氏との対決よりも、まず阿波方面を優先する形で四国統一を進めます。
ただし、誤解のないように申し上げますと、一気呵成に快進撃を続けたわけではありません。
各地の国衆や三好残党との一進一退を繰り返しながら、じわじわと勢力図を塗り替えていきました。

長宗我部に三好を牽制させよう
四国で勢力を急進させる長宗我部元親を織田信長はどう見ていたか?
元親が土佐を統一した天正三年(1575年)7月は、長篠の戦いからわずか2ヶ月後のこと。
この時点で両家が敵対していたわけではありません。
むしろ当初は利害が一致。
上洛後の織田軍は、主に畿内や摂津、河内、和泉方面で三好勢力との対立を続けていました。
三好氏は阿波を本拠としつつ、讃岐や淡路、さらには畿内方面にも影響力を持つ厄介な相手です。
これを背後から牽制したい――。
そこで“使える”存在だったのが、阿波方面で三好氏と直接ぶつかっている長宗我部元親でした。
元親にしても、天下人へ駆け上がる信長との接近は、四国攻略を後押ししてくれる大きな後ろ盾となり、思惑は綺麗に噛み合っていたのです。
そして、そんな両者の関係を取り次いだのが、明智光秀でした。

明智光秀/wikimedia commons
取次役となった明智光秀
明智光秀の重臣・斎藤利三には、石谷頼辰という実兄がいました。
この石谷頼辰の妹(あるいは義妹)が、長宗我部元親の正室だったとされます。
つまり長宗我部家と明智方は、石谷家を介してつながっていた。
光秀自身と元親が直接の姻戚ではありませんが、重臣同士の縁があったからこそ、光秀は長宗我部氏の取次役となり得たのでしょう。
かくして関係を構築していく織田と長宗我部。
それを象徴するのが、元親の嫡男・弥三郎に対して信長から与えられた「信」の偏諱でしょう。

織田信長/wikimedia commons
かつてはその年代をめぐって議論もありましたが、近年の『石谷家文書』の発見により、天正六年(1578年)の出来事と考えられています。
有力者である信長から一字を与えられるのは、政治的関係の深さを示しており、少なくともこの時点で両者の仲はかなり良好。
元親側の史料である『元親記』にも、この頃
「信長から“四国は切り取り次第(好きなだけ所領を奪っていい)”と認められた」
という話が伝わります。
『元親記』は後世に記されたもので「信長が四国全土の長宗我部領有を正式に保証した」とまでは言えません。
ただし、実際に長宗我部は四国で勢力を拡大しており、少なくとも当初の信長は、元親の阿波侵攻をある程度は容認していたと見てよいでしょう。
そうした曖昧さが、後に、元親にとって痛恨の極みとなります。
信長による領国返上の要求です。
信長に芽生えた不信感
そもそも織田信長は、なぜ長宗我部に対し、四国で得た領国の返上を求めたのか?
きっかけの一つは、三好一族の長老格・三好康長が信長に降ったことでした。
康長が織田家に帰順したのは天正三年(1575年)。
その後、信長は天正八年(1580年)の大坂本願寺との講和を経て、畿内周辺の敵勢を一つずつ片づけていきます。
そして天正九年(1581年)頃になると、四国方面の協力者として三好康長を本格重用することにしました。
四国政策の軸を、長宗我部氏一本から、三好勢力も含めた形へ切り替えたんですね。
一方の長宗我部元親は、阿波や讃岐、さらには伊予方面にまで勢力を広げつつありました。

長宗我部元親像
当初こそ、元親の阿波侵攻を黙認していた信長も、その勢力が四国全域に及ぶような状況になってくると、さすがに黙っていられません。
信長にとって三好牽制に便利な味方だったはずが、放置をすれば四国全土を丸ごと手にするかもしれない。
要は、放置できない存在になっていた。
そして転機は天正十年(1582年)に訪れました。
同年3月、長年の宿敵だった甲斐武田氏を滅ぼし、東方の憂いをほぼ払拭した織田軍。
本格的に四国介入できる余裕が生まれ、信長は、実行部隊の編成に着手します。
ドラマでは、信長の気まぐれのように見える対四国戦略も、実のところ多くの要因によって決められていました。
むろん、いきなり長宗我部へ攻撃を仕掛けるような真似はせず、そこで出されたのが新たな方針でした。
元親への通告
新たな方針とは一体なんだったのか?
『元親記』によれば、信長は元親に対し、土佐と阿波南半国のみを認め、その他を認めないと通告したとされます。
さらに天正十年(1582年)5月7日付の信長朱印状では、讃岐を信孝、阿波を三好康長に与え、伊予と土佐については信長自身が淡路へ出馬した際に決めるという方針を提示。
元親の本国である土佐の領有すら、この時点では確定させない厳しい内容でした。

さすがにこれは厳しすぎるだろう。
長宗我部がどれだけ血を流したと思っているのか。
とは、ドラマでも元親がキレていた場面であり、元親から見れば、これまでの戦果を根本から否定されるような内容です。
そこで重要になってくるのが、近年公開された『石谷家文書』です。
天正十年(1582年)5月21日――本能寺の変のわずか10日ほど前のこと、追い詰められた元親は、斎藤利三に宛てて書状を送っていました。
一体どんな内容だったのか?
というと「一宮城、夷山城(八万城)、畑山城、牛岐城といった阿波の主要な城を織田方へ譲渡する」という妥協案があったことを、研究者の福島克彦氏が著書『信長徹底解読』の中で指摘されております。
さらには土佐との国境に近い海部城(鞆城)と大西城(池田城)の二城だけは、「当国(土佐)の門」として堅持したいと元親は主張。
信長に真っ向から反発するのではなく、土佐防衛の要所だけは守らせてくれ……という条件付きの提案をしたのです。
そして、その交渉窓口になったのが斎藤利三であり、背後には、長宗我部元親と明智方を結ぶ縁戚ネットワークがありました。

『堅田浦の月』の斎藤利三(月岡芳年『月百姿』より)/wikipediaより引用
実際、この少し前には斎藤利三が、元親の後見人的な立場だった石谷光政に宛て
「信長の朱印の趣旨に従うのが元親のためだ」
と説得を試み、光秀も元親を疎略には扱わないと伝えていたことが分かっています。
こうした諸条件を当の信長はどう見ていたのか?
答えは出ないまま、大事件が勃発します。
本能寺の変です。
天正十年(1582年)6月2日、信長が光秀に討たれたことにより、四国の外交戦は大きく宙に浮くことになるのでした。
まとめ
果たして織田信長は、どこまで長宗我部元親の要望を聞く気があったのか。
四国方面軍が編成されたのは、本能寺の変の約1ヶ月前のこと。
総大将には三男・神戸信孝(織田信孝)が起用され、補佐役に丹羽長秀がつき、阿波支配の受け皿として想定されたのが三好康長です。
渡海は6月3日頃の予定であり、長宗我部との取次役だった明智光秀は、この軍事行動の中心からは遠ざけられています。
そして、その渡海予定日の前日に本能寺の変が勃発。
あまりにタイミングが良いことから、明智光秀が事件を起こした動機として「四国説」は非常に注目されます。
ただし、他にも様々な要因は挙げられていて、未だ一つに定まることはありません。
光秀の動機そのものも重要ですが、「織田信長と織田信忠が少数の兵と共に京都にいる」という奇跡的な状況が揃ったからこそ、明智軍も襲いかかることができたのでしょう。

織田信長(左)と織田信忠/wikipediaより引用
仮に織田信忠が生きていれば、そのまま織田家を牽引することになり、光秀のクーデター失敗は目に見えています。
事件が起きるまでに、偶然の要素が多すぎるのです。
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信長の死を受け、長宗我部元親は四国統一へと近づきます。
しかし最終的には、豊臣秀吉の四国征伐によって、結局、元親は土佐一国へと押し戻されてしまいました。
なお、元親の死後、長宗我部家は関ヶ原の戦いで西軍に属したことで土佐を失い、大名としての復活は叶わないのでした。
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信澄黒幕説・本能寺の変なんて実際あり得るのか?豊臣兄弟第26回レビュー
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参考文献
- 谷口克広『織田信長の外交』(2015年11月 祥伝社)
- 岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
- 堀新・井上泰至編『信長徹底解読―ここまでわかった本当の姿』(2020年7月 文学通信)
- 中川太古訳『信長公記 現代語訳』(PHP研究所)

