大河ドラマ『豊臣兄弟』の第32回放送で描かれた中川清秀が話題になっています。
「賤ヶ岳の戦い」で羽柴軍として参戦した清秀が、突如として秀吉を裏切り、最後は前田利家に殺されるのですが、これの一体何が話題になるのか?
というと、実際の清秀は裏切り者ではなく、いくらドラマでも史実を歪曲しすぎではないか!としてYahooニュースでも取り上げられるほどでした。
そうです。
確かに中川清秀は裏切り者なんかじゃありません。
それどころか、賤ヶ岳の戦いでは安全な砦へ移る誘いを断り、羽柴軍のため、敵の猛将・佐久間盛政を相手に討死するまで奮戦しているのです。
天正十一年(1583年)4月20日、近江の大岩山。

中川清秀/wikipediaより引用
そこで何が起きていたのか、中川清秀の最期を確認してみましょう。
秀吉の義兄弟は2人だけ
そもそも中川清秀とはどんな武将だったのか?
研究者の和田裕弘氏は著書『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』の中で「信長からは中国地方で二か国の宛行を約束された」実力者として高く評価しています。
二か国とは織田家の宿老クラスに匹敵。
あくまで約束とはいえ、ドラマで清秀を殺した前田利家よりもずっと高い扱いとなります。
現代で清秀の名があまり知られていないのは、そもそもこの賤ヶ岳で討死していたからでしょう。
清秀は、秀吉との関係もまた際立っており、同じく和田氏の著書『織田信長の家臣団』が義兄弟の契りを結んだ相手として挙げるのは、黒田官兵衛と中川清秀の2人でした。
◆秀吉が認めた2人の義兄弟
・黒田官兵衛
・中川清秀
あの官兵衛と並んでいたんですね。

黒田官兵衛/wikimedia commons
なんせ秀吉から清秀に宛てて「これから先、兄弟の約束を取り交わそう(向後、兄弟の契約申し定め候)」という書状が送られていたほどで、秀吉方の記録『豊臣記』にも「その武勇は天下に知られた侍」と記述されています。
摂津茨木城を与えられていた清秀は、旧領と合わせて4万400石。
賤ヶ岳の時点で「秀吉方の一武将」ではなく、織田家中でも屈指の実力者と言えるのでした。
「この砦は秀吉公から預かったもの」
天正十一年(1583年)3月に始まった賤ヶ岳の戦い。
羽柴と柴田の大軍が北近江に集まり、それぞれの傘下武将たちが各拠点に砦を構築した結果、戦線は膠着しました。
清秀が守っていたのは、琵琶湖の北にある余呉湖の東、大岩山の砦です。
先に動いたのは秀吉でした。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
4月16日、美濃で再挙兵した織田信孝を討つため、余呉に布陣していた兵のうち2万を率いて大垣へ向かったのです。
そこで真っ先に突撃したのが猛将・佐久間盛政でした。
4月20日の早朝、余呉湖を大きく迂回し、大岩山砦へ急襲をしかけたのです。
◆大岩山……中川清秀
◆岩崎山……高山右近
◆田上山(秀吉方本陣)……羽柴秀長
盛政軍の動きを最初に察知したのは、賤ヶ岳砦にいた桑山重晴でした。大河ドラマ『豊臣兄弟』で、秀吉が秀長に預けていった老将ですね。
重晴はただちに大岩山と岩崎山へ使いを飛ばします。
「多勢の敵に対し、こちらは小勢で砦も完成していないから、賤ヶ岳に集結して一緒に戦おう――」
つまり清秀は、砦を捨てて安全な場所へ下がるよう、重晴から勧告されていたのです。
しかし、清秀はこれを断ります。
この砦は秀吉公から預かったもの、たとえ屍を晒すといえども、死守するのが予の使命でござる
裏切るどころの話ではありません。
その場から離れてよいと忠告されながら、逃亡はせず。そんな人物を、真逆の裏切り者に仕立てるのは、さすがにフィクションでもやり過ぎでしょう。
では実際に、清秀はどう戦ったのか?
大岩山で何が起きたのか
戦闘が始まったのは、4月20日朝6時。
中川清秀はこの戦いを織田家における天下分け目と自覚していました。
無様な戦いをすれば生涯の不覚になる。そう覚悟したうえで、1000ほどの自軍に「決して退くな!」と指令を出し、自ら砦を打って出ます。
籠城ではなく、出撃したのです。
相手は「鬼玄蕃」と呼ばれる佐久間盛政。
清秀が守っていた砦は、前述の桑山重晴の言葉どおり未完成です。ゆえに盛政を相手に守り切ることは不可能——そういう判断もあったのかもしれません。

『佐久間盛政秀吉ヲ襲フ』/wikipediaより引用
盛政は、清秀軍を包囲殲滅しようと攻め続けましたが、一方の清秀も精兵50〜60騎を率いて抗戦し、一時は押し返すほどの気迫を見せています。
それでも盛政は引きません。
激闘は4時間に及び、双方共に損害を出しながら戦闘は続き、ついに佐久間軍は清秀を討ち取ったのです。
享年42でした。
※『中川氏年譜』では、弟の淵之助が「我こそは中川瀬兵衛である」と名乗って敵を引きつけ討死し、清秀はその隙に本丸で自害したと伝えています
清秀を討ち取ったのは近藤無一
中川清秀の首を取ったのは、佐久間盛政の家臣・近藤無一という武将でした。
無一は首級を柴田勝家のもとへ運び、首実検後に褒美として脇差を与えられています。

柴田勝家/wikipediaより引用
つまり清秀の首は柴田軍の本陣にあり、ドラマのように前田利家が羽柴軍へ持ち込み、秀吉の前に投げ捨てるなんてことはできません。
興味深いのは、その後の近藤無一と中川家の関係でしょう。
賤ヶ岳の戦いで勝利したのは秀吉であり、猛将として恐れられた佐久間盛政も結局は捕らえられ、手柄を挙げた近藤無一の主家は消滅。
無一の直系も絶えてしまいますが、その一族とされる人物が、賤ヶ岳の戦いを縁として中川家に仕えたとも伝わっています(『故老伝説集録』ほか)。
父を討った男の一族が、討たれた側の家に仕える。
戦国の縁というのは、どうにも複雑にできていますね。
なぜ高山右近は戦わなかった?
中川清秀と共に注目される高山右近についても見ておきたいところがあります。
大岩山砦の隣、岩崎山砦に陣を構えていた高山軍。
右近も「賤ヶ岳で共に戦おう」という桑山重晴の誘いを断っていました。
それぞれ預かった砦を守るのが筋だ!というのがその理屈でしたが、いざ佐久間盛政軍が大岩山を取り巻くと、右近はろくに戦わないまま岩崎山砦を明け渡し、秀吉方の本陣へ退いてしまうのです。
言ってることと、やってることが違いすぎるやんけ!
とは我々が思うだけでなく、当時からもそう責められ、アイツは勝家方に寝返ったのか?という見方もありました。

高山右近/wikipediaより引用
しかし、楠戸義昭氏の著書『賤ヶ岳の鬼神 佐久間盛政』では、右近にも戦えない事情があったと見ています。
右近の父・高山図書(ずしょ)は、荒木村重の謀反に加担したため罪人扱いされていました。
信長は、その図書を殺さず勝家へ預けるのですが、勝家は図書を罪人扱いせず、北ノ庄では自由に行動させキリスト教の布教まで許し、友として受け入れていたのです。
父を助けてくれた相手に、刃は向けられない――賤ヶ岳では、そんな右近なりの苦悩があったというのです。
つまり、清秀も右近も、どちらも裏切ってはいない。
では、本当の裏切り者とは誰なのか。
本物の裏切り者は山路正国だ
賤ヶ岳での裏切り者は、山路正国(やまじ まさくに)です。
正国は秀吉方の堂木山砦を守っていましたが、白昼に敵陣の柴田軍へ走り、勝家はこの正国からもたらされた情報で大岩山砦が脆弱だったことを知ります。
佐久間盛政が大岩山への奇襲を決断したのも、正国の情報があったから。
つまり大岩山の奇襲そのものが、山路正国の寝返りから始まっているわけです。
清秀は、その寝返りの結果として襲われたのであり、それが逆にドラマでは裏切り者として描かれるのですから、さすがに辛いものがありますね。
なお、『太閤記』などの軍記物に描かれた山路正国の最期は呆気ないものです。
賤ヶ岳の本戦で加藤清正と遭遇し、槍を合わせたのち組み討ちとなり、斜面を20〜30間も転げ落ちて討たれました。

楊洲周延筆「賤ヶ嶽合戦 加藤虎之助 山路將監」/wikimedia commons
あくまで軍記物(物語)の話ではありますが、それだけ山路正国の行動が恥ずべきものと受け取られたのでしょう。
豊臣政権の重鎮になれた可能性も
もしも中川清秀が生きていたらどうなっていたか?
研究者の和田氏は、豊臣政権内で大きな存在になっていた可能性があると指摘します。
信長からは二か国を約束され、秀吉と兄弟の契りを結び、山崎の戦いでは高山右近と共に先鋒を務めており、豊臣政権が樹立すれば重鎮となっていてもおかしくありません。
しかし、現実的に中川家に残されたのは苦しい道でした。
跡を継いだ長男の中川秀政は、正室に織田信長の娘・鶴を迎えているのですが、後年「文禄の役」の最中、鷹狩りに出たところを伏兵に襲われて討死(享年25)。
中川家は「陣中巡視の最中に襲われた」と報告するも、嘘がバレて領地を削られてしまうのです。
そして家督は弟の中川秀成へ。

中川秀成/wikipediaより引用
6万6000石の豊後岡藩として幕末まで続きはしますが、もしも清秀が藩祖となっていたら、その所領はもっと大きなものとなっていたのでは?
少なくとも後世で“裏切り者”として描かれるなんてことはなかったでしょう。
なお、同じくドラマで注目された前田利家と柴田勝家の“複雑”な関係については以下の関連記事を併せてご覧いただければ幸いです。
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前田利家は柴田勝家を「おやじ殿」と呼んだのか?知られざる2人の複雑な関係
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【参考文献】
- 和田裕弘『柴田勝家 織田軍の「総司令官」』(2023年6月 中央公論新社・中公新書)
- 和田裕弘『織田信長の家臣団 派閥と人間関係』(2017年11月 中央公論新社・中公新書)
- 楠戸義昭『賤ヶ岳の鬼神 佐久間盛政』(2002年6月 毎日新聞社)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』(2010年3月 吉川弘文館)
- 柴裕之『清須会議 秀吉天下取りへの調略戦』シリーズ・実像に迫る017(2018年9月 戎光祥出版)
- 歴史読本編集部『信長の子 覇王の血を継ぐ36人の謎』(2012年9月 新人物往来社)

