元和元年(1615年)10月14日は片倉小十郎景綱(かげつな)の命日です。
伊達政宗のそばにいる兄貴的存在――ドラマや小説では、そんな参謀・軍師として描かれることが多く、伊達家臣の中でも知名度は抜群でしょう。
しかし近年では、そのイメージは一面では正しく、ある面では正しくないとも考えられています。
一体どういうことなのか?
景綱は、政宗の側近として城代や武将として働く一方、伊達家の顔として諸大名との交渉を担う「外交官」でもあったというのです。

片倉小十郎景綱/wikimedia commons
本記事では、そんな片倉小十郎景綱の素顔を振り返ってみましょう。
政宗の養育係から側近へ
片倉景綱は弘治三年(1557年)、米沢で生まれました。
父は、八幡宮で神職を務めた片倉景重。
その次男として生まれた景綱は、当初は政宗の父・伊達輝宗に徒小姓(かちこしょう)として仕え、天正三年(1575年)、幼い梵天丸(のちの政宗)付きの家臣に抜擢されます。
当時19才。
神職の家から大抜擢――と驚かれがちですが、近年の研究では景綱の叔父や兄も伊達家の有力家臣だったことが判明しており、それほど不自然な人選ではなかったようです。
そんな景綱と政宗の間で有名なエピソードがこちらでしょう。
政宗の失明した右目の腫れ物を景綱が突き潰した

幼少期の伊達政宗イメージ(絵・富永商太)
いかにも戦国気風の漂う逸話ですが、この話を伝えているのは江戸時代の伊達家や片倉家の記録で、どこまで事実かは分かりません。
確かなのは、景綱が少年時代の政宗のすぐそばにいたことです。
そこで片倉景綱は「軍師」のような働きをしていたのでしょうか?
ふだん政宗と相談していたのは誰か
意外なことに、日ごろ政宗のそばで談合や食事を共にしていたのは、片倉景綱ではありませんでした。
研究者の竹井英文氏は著書『戦国武将列伝1 東北編』の中で、その顔ぶれは伊達一族や長老格の家臣、隠居たちだったと指摘。
例えば、景綱の叔父・片倉以休斎もその一人とされます。
つまり景綱を政宗の参謀・軍師とするイメージは一面では正しく、ある面では正しくないわけですが、いずれにせよ重臣だったことに変わりはありません。
景綱は、天正十四年(1586年)に信夫郡の大森城(福島市)を任され、石高2万石に相当する大身になると、米沢と大森を頻繁に行き来し、各地の戦場にも出向きました。
江戸時代にまとめられた『片倉代々記』では「人取橋の戦い」で景綱が先陣を務めたと伝えます。
また「摺上原の戦い」では第二陣として蘆名軍と激しく斬り結んだことが当時の記録『伊達天正日記』にも記されています。
伊達成実と並び政宗を支えたことは間違いないでしょう。

伊達成実/wikipediaより引用
家督を継いだばかりの政宗のもとでは、領内から集める税(段銭)の徴収を取り仕切った時期もありました。
政宗のそばに常に控えて策を授ける軍師、という姿とはいささか異なりますね。
実際、最も求められた役割はそこではありません。
外交でした。
伊達家の顔となった外交官
外交官としての片倉景綱はどんな働きが記録されているのか。
政宗が家督を継ぐ前の天正十一年(1583年)には、すでに会津の蘆名盛隆から景綱に対して「政宗との仲を深めたい」という書状を受け取っています。
研究者の佐藤貴浩氏は著書『「奥州の竜」伊達政宗』の中で、股肱の臣としての立場が、家督相続の前から奥羽の諸大名に知られていたからだろうと指摘。
実際その後も景綱は、最上・蘆名・葛西・上杉・北条・徳川、そして豊臣政権と、実に幅広い相手との交渉を担いました。
全部じゃん!
とツッコミたくなりますが、実際には伊達成実や原田宗時、高野親兼らも取次を務めています。
それでも外交における景綱の存在は大きく、秀吉が大名同士の争いを禁じた「惣無事」に関わる文書も、景綱宛てで出されています。

豊臣秀吉/wikimedia commons
北条氏照が、景綱の添え状を得られなかったことを不安がる書状まで残っているほどです。
天正十六年(1588年)11月には、郡山合戦の和睦を仲介した岩城氏のもとへ使者として赴き、およそ1か月も滞在して交渉にあたりました。
まさに伊達家の「顔」だったと言えるでしょう。
政宗と過ごした米沢の日常
片倉景綱と政宗が特別に近い間柄だったことは間違いありません。
伊達家の当時の記録『伊達天正日記』に、2人の交流が生き生きと残っています。
特に濃密な天正十五年の記録を見て参りましょう。
天正十五年(1587年)2月5日……雪の日に政宗が景綱の屋敷を訪れ、夜まで過ごす
雪がシンシンと降る中で、暖を取りながらお酒でも飲んでいたんですかね。
同年4月11日……景綱の屋敷で鮒(ふな)を釣らせて膾(なます)にし、兵法を学びながら双六で遊んで深夜に帰る
情報量が多すぎ!
まず普段から屋敷の池に鮒を飼っていて、その場で捌いて食べられるとはなんて楽しそうなのでしょう。
ちなみに政宗の館でも、献上された鮒が泉水(庭の池)に放たれた記録があり、鮒が身近な魚だったことがうかがえます。
兵法(ひょうほう)とは武芸のこと。
実は5月18日にも同様のことが日記に記されています。
・同年5月18日……政宗と景綱が一騎打ちの稽古をし、景綱の槍を取り上げる
このときは政宗が勝ってますね。
本当に強かったのか、主君の面目を立たせたのか。
その辺の機微は不明ですが、景綱が突いてきた槍を政宗が取り上げると、槍が折れてしまったとのことで、どんだけ力があるんだ! 戦国武将、やはり怖い。
・同年8月13日……夜に景綱の屋敷へ出向く
夏は夜――。
当時は真夏でも、涼しく過ごしやすかったでしょう。
詳細は不明ながら、酒でも酌み交わしていた姿が浮かんできます。

伊達政宗(左)と片倉景綱/wikipediaより引用
息子の重長も興味深い
いかがでしょう?
単なる主君と家臣の関係ではない様子が伝わってきませんか。
天正十六年(1588年)3月、敵に囲まれた政宗は片倉景綱への書状で、「政宗一人が切腹することは苦しくない」という弱音まで書き送っています。
筆まめとして知られる政宗ですが、ここまで本音を明かせる相手も中々ないでしょう。
『片倉代々記』によれば、景綱は関ヶ原の頃から体調を崩し、晩年には肥満も進んで病に苦しんだとされます。
大坂の陣には出陣できず、嫡男の重綱(のちの片倉重長)を送り出しました。

片倉重長(重綱)の浮世絵/wikimedia commons
政宗はたびたび医者を遣わしますが、景綱は大坂の陣で活躍した重綱の姿を直接見ることなく、元和元年(1615年)10月14日に逝去となりました。
いわゆる軍師という肩書だけでは捉えきれない。
外交の最前線にも立った伊達家の顔であり、政宗の側近だった片倉小十郎景綱。
その息子・片倉重長については大坂の陣後に「真田信繁(幸村)の娘を妻にした」という非常に興味深い話がございます。
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参考文献
- 遠藤ゆり子・竹井英文編『戦国武将列伝1 東北編』(2023年4月 戎光祥出版)
- 佐藤貴浩『「奥州の竜」伊達政宗 最後の戦国大名、天下人への野望と忠誠』(2022年12月 KADOKAWA)

