武田信玄と上杉謙信の大きな違いは?
一つ挙げるとしたら“家臣の知名度”ではないでしょうか。
武田家といえば「二十四将」とか「四天王」などの人気グループだけでなく、「隻眼の軍師」あるいは「元祖赤備え」といった個性豊かなキャラクターの顔が頭に浮かんできます。
一方、上杉家は?
直江や柿崎、揚北衆など、一定の知名度を持つ武将や氏族も確かにいますが、武田家臣団と比べて圧倒的に知名度が低いですよね。
おそらく軍神・上杉謙信の神がかりキャラがあまりに強烈すぎて、家臣たちの存在感まで飲み込んでいるのではないでしょうか。
そこで本記事では、上杉謙信の家臣団に注目!

上杉謙信/wikimedia commons
謙信のもとには、どんな武将がいたのか?
天正三年(1575年)の『上杉家軍役帳』をもとに一門や国衆、旗本などを確認してみましょう。
謙信が作らせた『上杉家軍役帳』
上杉家の家臣といえば、大河ドラマ『天地人』の直江兼続や『風林火山』の宇佐美定満(緒形拳さん)を思い浮かべる方も多いでしょう。
しかし天正三年(1575年)2月16日の『上杉家軍役帳』に、彼らの名はありません。
では、どんな武将がいたのか?
研究者の今福匡氏が著書『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』の中でまとめた、4つのグループ(36人)に注目です。
①一門・客将:上杉景勝ら6人
②揚北の国衆:中条・色部・新発田など10人
③中郡・上郡の国衆:斎藤朝信・柿崎晴家など12人
④旗本:直江景綱・山吉豊守・吉江資堅など8人
残念ながら同軍役帳には、上野や越中に派遣されていた重臣は掲載されていません。
また、越後国内の本庄繁長や鮎川盛長らの名もなければ、前述の通り宇佐美定満もない。

宇佐美定満の浮世絵(作:月岡芳年)/wikimedia commons
上杉軍の全体を網羅した名簿ではないのです。
しかし、人名の他に槍、鉄砲、大小の旗、馬上の数なども記されていて、当時の家臣団の顔ぶれと軍事力が浮かんでくる貴重な史料です。
軍記物のようなエンタメわくわく感はない代わりに、史実ならではの凛とした情報が並んでいる。
「一門・客将」から順に見ていきましょう。
筆頭は「御中城様」こと上杉景勝
名簿の筆頭に記されたのは「御中城様(おんなかじょうさま)」こと上杉景勝でした。
景勝は、この年の正月に「名字と名乗りを改めよ」と謙信に命じられると、春日山城の「中城(なかじょう)」と呼ばれる曲輪に移っていました。
謙信の居所である「実城(みじょう)」に次ぐ場所です。

上杉景勝/wikipediaより引用
景勝の軍役量は375人で、旗本・山吉豊守の377人に次ぐ2番目の多さ。
そして景勝に続く、軍役帳の2番目から6番目には、
・山浦国清
・上杉景信
・上条政繁
・琵琶島弥七郎
・山本寺定長
の5人が、上杉一門として続きました。
ただし一門といっても、越後守護の上杉氏の血筋ではありません。
実際には、謙信や景勝と同じ長尾一族や、信濃村上氏の出身者などが、上杉の名跡を継いだものです。
実はこの年の正月、謙信は甥の長尾顕景に「上杉」の名字と、自身の官途である「弾正少弼」、そして「景勝」の名を与えていました。
そう、それこそが上杉景勝ですね。
今福氏は著書『越後揚北衆と上杉謙信 本庄・色部・中条・新発田氏』の中で、これを事実上の後継者指名だったと見ています。
軍役帳でも「様」付けで記されたのは景勝ただ一人でした。
あれれ?
でも、おかしくないか、って思いません?
上杉家では天正六年(1578年)に謙信が急死すると、北条氏康の子で養子にはいっていた上杉景虎が、景勝と熾烈な相続争い「御館の乱」を起こします。
もしも謙信が景勝を後継者と認めていたら、そんな争いも起こらなかったはず……。
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上杉景虎の生涯|なぜ関東北条氏の子息が越後上杉氏で跡継ぎ争いとなるのか
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景虎の名前が軍役帳に掲載されていない理由は不明です。
景虎の知行が、山を越えて上野(群馬県)の沼田城付近にあったため、越後の名簿から外れたとする見方もあります。
では次に「揚北の国衆10人」を見てまいりましょう。
自立心の強い「揚北衆」などの国衆
揚北の国衆10人とは、阿賀野川より北、越後北部に根を張っていた国衆のこと。
揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれ、上杉家の中では知名度の高い集団ではないでしょうか。
ただし、個人名となると微妙かもしれません。
皆さんはどれだけご存知でしょう?
・中条景泰
・黒川四郎次郎(平政か)
・色部顕長
・水原満家
・竹俣慶綱
・新発田長敦
・五十公野右衛門尉
・加地彦次郎
・安田新太郎
・下条采女正
チラホラと名字は見かけるけれど、戦国ゲームなどでもあまり見ない名前かもしれません。
なんせ彼らは、上杉家の家臣というより独立性の高い領主たちであって、謙信の政権とは一線を画していたともされます。
ただ、この中の一人だけ何かと目立つ方がいます。
五十公野右衛門尉です。
実は、後の新発田重家とみられる人物であり、それが正しければ謙信の死後、景勝に背いて長く戦う人物でした。

新発田重家/wikipediaより引用
もちろん越後の国衆は揚北衆だけではありません。
軍役帳には中部・南部から12人の国衆が記載。
例えば斎藤朝信のほか、千坂景親や柿崎晴家らの名が見えます。
斎藤朝信は奉行として上杉家の政務を担い、柿崎晴家は、謙信の重臣として知られた柿崎景家の跡継ぎです。
斎藤朝信と柿崎景家は、上杉家臣の中でもかなり知名度が高いですね。まぁ、武田四天王には敵いませんが……。
旗本には直江景綱がいた
ラストの8人は謙信の側近くに仕えた旗本たちです。
・松本鶴松
・本庄秀綱
・吉江忠景
・山吉豊守
・直江景綱
・吉江資堅
・香取弥平太
・河田吉久
上記のメンバーから、上杉家の内政や外交の中枢を担う人物が出ています。
まず山吉豊守は謙信の側近として政務を動かした重臣であり、それと並ぶのが直江景綱です。
直江兼続の舅に当たる武将であり、謙信だけでなくその兄や父に仕えてきた重臣中の重臣でした。
では、なぜ兼続の名は軍役帳にないのか?
というと、対象はあくまで軍役を負担する一門・領主・旗本であり、当時まだ十代の若者だった兼続はその立場にはありませんでした。

直江兼続/wikipediaより引用
名簿から漏れたわけではないのです。
兼続が上杉家の中枢に躍り出るのは、謙信が亡くなり、景勝の時代になってからのことです。
軍役帳に名がない重臣たち
軍役帳に名がなくても、謙信を支えた重要な家臣は当然ほかにもいます。
まずは上野(群馬県)に注目してみましょう。
厩橋城(前橋市)の北条高広(きたじょう たかひろ)は、謙信のもとで奉行も務めた重臣で、関東の拠点を預かっていました。
小田原の北条(ほうじょう)氏とは別の一族です。
ところが高広は永禄九年(1566年)の末、謙信から離れて小田原の北条氏に通じ、激怒した謙信はこの冬、佐野(栃木県佐野市)で年を越すことになりました。
北条(きたじょう)が北条(ほうじょう)に通じるとは何ともややこしい。
当時の本人たちは、どう思っていたんですかね?
互いに、わざと名前を間違って呼び合ったりするネタにして、笑い合ってたりしたら微笑ましい。
「おっ、きたじょうさん!」
「いやいや、それ、あなたでしょ」みたいな。

北条氏康/wikimedia commons
沼田城(沼田市)には、松本景繁・河田重親・上野家成の3人が永禄年間から在番しており「沼田三人衆」と呼ばれました。
上杉と北条が手を結んだ越相同盟では、3人が交渉の窓口を担当。
河田重親って、あれ……?って思われる方もいらっしゃるかもしれません。
そう、魚津城にはいった河田長親の叔父であり、このまま越中(富山県)方面を見ていきますと、新庄城には鰺坂長実(あじさか ながざね)が入るなどして、西の防衛線を固めていました。
河田長親は謙信に取り立てられ、越後の古志長尾氏の名跡と、その家臣団を与えられた人物。
ゲームなどでも割と登場率が高い方ですよね。
越後国内にも、軍役帳に載らない揚北の領主がいました。
最も有名なのが本庄繁長でしょうか。

本庄繁長を描いた歌川国芳の浮世絵/wikipediaより引用
永禄十一年(1568年)、謙信に背いて武田信玄に通じたのですから、なかなかのインパクト。
しかし結局謙信に降伏して、その後は「雨順斎全長(うじゅんさい ぜんちょう)」と名乗り、出兵を命じられても自分では出陣せず、代わりの者(陣代)を送っています。
事実上の隠居状態だったとみられます。
この本庄繁長を鎮圧するために戦ったのが鮎川盛長です。
大葉沢城(村上市)の城主で、鮎川家は本庄家と長く争ってきた間柄。
盛長は若くして謙信の側近くに仕えていた人物です。
なお、武田四天王については、以下の記事で紹介しています。
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武田四天王とは誰のことだ?信玄が国境の重要拠点を託した4人の宿老
続きを見る
直江兼続の生涯については、以下の記事で詳しく扱っていますので、よろしければ併せてご覧ください。
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直江兼続の生涯|真価は「義と愛」に非ず 史実も十分に魅力的な戦国武将
続きを見る
参考文献
- 今福匡『上杉謙信 「義の武将」の激情と苦悩』(2018年11月 星海社)
- 今福匡『越後揚北衆と上杉謙信 本庄・色部・中条・新発田氏』(2026年8月 戎光祥出版)
- 今福匡『図説 上杉謙信 クロニクルでたどる〝越後の龍〟』(2022年3月 戎光祥出版)
- 池享・矢田俊文編『増補改訂版 上杉氏年表 為景・謙信・景勝』(2007年 高志書院)
- 花ヶ前盛明編著『上杉謙信謎解き散歩』(2013年12月 KADOKAWA)



