1843年6月30日、後に通訳として来日するイギリス人「アーネスト・サトウ」が誕生しました。
「日本に帰化したか、あるいはハーフだから、名前が”サトウ”かな……」と一瞬、思ってしまいません?
実は”Satow”というのはスラヴ系の稀な名字で、日本と直接関係があるわけではありません。
ただ、日本人にも発音しやすいこの名字のおかげで、彼は来日後にスンナリ受け入れられ、彼自身も幕末~明治のニッポンにどっぷりと浸かっていきます。
人の感覚ってほんとそんな他愛のないものですよね。
そんなサトウの生涯を振り返ってみましょう。

アーネスト・サトウ/wikipediaより引用
アーネスト・サトウは「佐藤愛之助」
当初からサトウは親日家でした。
帰化こそしておりませんでしたが、日本風の「佐藤愛之助」または「薩道愛之助」という名前を持っています。
幕末~明治期の親日家をまとめて、以下レオン・ド・ロニーなどの記事でご紹介しましたように、
-

元祖ニッポン大好き外国人レオン・ド・ロニーとその他の個性的な訪日外国人とは
続きを見る
サトウとその先達であるイギリス人たちのベタ褒めようときたら胡散臭く、幕末&開国による利権狙いがあからさまです。
「ニッポンすげえ!お前らも来いよ!」(超訳)
そんなことを言い出したのはジェイムズ・ブルース(エルギン伯爵)というイギリス貴族で、彼の秘書であり作家のローレンス・オリファントがこれらをまとめて『エルギン卿遣日使節録』を出版しました。
「日本では男女問わず子供でも読み書きができ、簡単になら自国の歴史を語ることができる」
=
「当時の基準としては驚異的な識字率を持っている」

江戸幕府と条約交渉を行うエルギン伯を描いた絵画/wikipediaより引用
とまぁ、非キリスト教圏でありながら類稀な文明を持っていることが書かれたこの本は、多くの西洋人が日本へ興味を持つきっかけとなりました。
サトウもその一人で、18歳のときに通訳を目指し、イギリス外務省で働き始めます。
現代と順序があべこべですが、当時は遠い異国の地に関する教材なんてほとんどないため、まずは現地に行かないとどうしようもなかったのです。
この辺を考えると、上述の記事でご紹介したレオン・ド・ロニー(※ほぼ同時代生まれ)がどこからどうやって日本語の教材を手に入れたのか、ますます不思議になってきますね。
まぁそれは置いておきましょう。
漢字に惚れて見事な揮毫
サトウは、駐日公使(大使の一歩手前の役職)だったラザフォード・オールコックの口添えで、まず北京へやってきます。

ラザフォード・オールコック/wikipediaより引用
そして翌年いよいよ来日し、実地で日本語を学び始めました。
この時代、西洋人が日本に関心を持つきっかけは工芸品や美術など文化面であることが多いですが、サトウの場合は言語だったようです。
後に「敬和」という字を揮毫(どこかに飾るために字や絵を書くこと)もしているほどですから、よほど漢字や日本語が好きだったのでしょうね。
物騒すぎて、普通の人だったらソク帰国していても不思議じゃありませんね。
先達がほとんどいない。
発音から表記から何もかも違う。
そんな言語習得にはかなり時間がかかったようですが、先に来日していた宣教師達や周囲の日本人からアドバイスをもらうことができ、サトウは着実に日本語を身につけていきます。
本格的な通訳の初仕事は【十四代将軍・徳川家茂が孝明天皇に攘夷を約束した】という手紙の翻訳でした。
それまでにもカンタンな文章の訳をしていたにせよ、初仕事にしては随分と難儀な仕事ですよね。
倒幕間際の1866年(慶応二年)には英字新聞『ジャパン・タイムズ』で論文を連載したこともあります。
原文はもちろん英語ですが、後に日本語訳が「英国策論」として出版され、西郷隆盛や伊達宗城(むねなり)など、倒幕に一役買った人々も読んでいたそうです。
中身は「江戸幕府もうダメじゃね?新しく天皇中心の国にしたほうが良くね?そしたら貿易もできて(多分)儲かるよ!」(超訳)というもので、まさに倒幕側の考えと一致していました。
本国で対立するフランスが江戸幕府に肩入れし、イギリスは薩摩べったりでしたので、代理戦争という一面も強かったのでした。
倒幕~日露戦争の時代をナマで見ていた
サトウの来日は幕末でしたので、戊辰戦争その他日本の動乱をつぶさに見ています。
会津降伏後の会津へ行って、殿様の松平容保が東京に護送される様子なんかもシビアに見ていて、

松平容保/wikipediaより引用
領民たちが悪口を言っている様子などを記録に残しております。非常に生々しいです。
途中、一時帰国したり、別の国で働いていた時期もありますけども、概ね倒幕~日露戦争まではほぼリアルタイムで情勢を知っていました。
日露戦争の時には北京におり、イギリスへ帰る前に日本へ立ち寄っています。
どう考えても遠回りですが、既に60歳を超えていましたので、行けるときに行きたいと思っていたのでしょうか。
日本人妻と3人の子供を残すも……
ちなみにサトウは日本人女性・武田兼と事実婚をしており、三人の子供に恵まれています。
次男の武田久吉についてはロンドンで勉強できるように取り計らっていたり、家族と同居することはなかったものの、冷遇一辺倒ではありませんでした。
おそらく感情的な理由ではなくて「外交官=どこへ赴任するかわからない=西洋の生活に慣れない妻子を連れ歩くのはどうよ?」というところだったのでしょう。
ちなみにこの兼さん、洋装姿の写真が残っています。
日本人女性らしいお顔立ちなのにとても似合っているんですよね。こりゃ惚れる。
サトウもかなりのイケメンですので、さぞ似合いの夫婦だったでしょうね。
サトウはその後イギリスに帰り、1929年(昭和四年)に86歳の生涯を終えました。
晩年は孤独だったようで、できれば日本に移住したいと思っていたようです。運悪く寿命のほうが先に来てしまい叶いませんでした。
当時は飛行機もなく船旅のみ、イギリス~中国まで一番いい船でも3ヶ月くらいかかっていた時代ですので、老体や病身ではほぼ不可能だったでしょう。
せめて遺品だけでも家族の元に届いていればいいのですが。
あわせて読みたい関連記事
-

元祖ニッポン大好き外国人レオン・ド・ロニーとその他の個性的な訪日外国人とは
続きを見る
-

幕末維新の日英関係に欠かせない ラザフォード・オールコックは一体何をした人?
続きを見る
-

生麦事件で死者一名と重傷者二名 イギリス人奥さんは頭髪を剃られ薩摩vs英国へ
続きを見る
-

薩英戦争で勝ったのは薩摩かイギリスか|戦後は利益重視で互いに結びつく
続きを見る
-

夭折した“最後の公方様”徳川家茂|孝明天皇に信頼され幕臣からも慕われた
続きを見る
【参考】
国史大辞典
新人物往来社『異国人の見た幕末・明治JAPAN 愛蔵版』(→amazon)
アーネストサトウ/wikipedia







