そう言われる割に、生活の中には、仏教や神道に由来する事物が浸透しておりますよね。
お盆・お彼岸のお墓参りや初詣などは最たるもので、今回はそんな習慣の一つに注目してみましょう。
10月5日は”達磨忌”です。
達磨とは、もちろんあの丸っこい人形のことでもありますが、その元ネタとなったお坊さんの縁日がこの日とされています。
徳の高いお坊さんの尊称”大師”をつけて【達磨大師】ともいわれているので、こちらに聞き覚えのある方はしっくりくるでしょうか。
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達磨大師は胡人だから髭が濃すぎる?
達磨大師の生没年は不祥です。
だいたい4~6世紀頃の人だったといわれています。名前が記録に出てくるのが6世紀の中国だからですね。
この頃は中国大陸恒例の行群雄割拠時代で、その中に東魏という国がありました。
三国志の魏とは違う国なので要注意です。テストには出なそうですけど。
この東魏の記録に
「西のほうからペルシア生まれの達磨っていう人がわざわざこっちに来たよ」(超略)
ということが書かれているのが最古といわれています。
原文だと”胡人”(中国から見て西に住んでいる人々)とあり、実際には中央アジア・インド・中東までかなり広い範囲の人を指します。
途中には山やら砂漠やら大河が点在していてとても行き来がしやすいとはいえませんが、一応大陸続きですので、商人や僧侶などがたまに来ていたのでした。
達磨大師もその一人だったといわれています。
生まれはインドという説もありますが、やっぱり詳しいことはわかりません。
胡人という言葉は、元々「ヒゲの長い人」という意味があるそうなのですが、中国に来た頃の達磨大師はまさにその通りの姿をしていたとか。
通りで人形の達磨もヒゲもじゃなわけですね。
でも月岡芳年の木版画で胸毛までビッシリ描かれてるのはさすがにどうよ。
男らしいといえば男らしいですけども。
芳年さん、達磨大師に何か特別な思い入れでも……?
禅の教えは抽象度高すぎて庶民も皇帝にも分かりません~
まあ体毛の話はそこまでにしまして。
達磨大師は禅の教えを広めるべく、海路で中国へやってきたといわれています。
上陸したのは広州というところで、現代の地名でいえば香港やマカオの周辺ですね。
当時ここには”梁”という国があり、達磨大師は皇帝と謁見することになりました。仏教に深く傾倒している皇帝だと聞いて尋ねたところ、歓迎してもらえたのです。
玄奘三蔵法師も含め、中国ってお坊さんに優しかったり厳しかったりの差が極端ですよね。
そして大師は梁の皇帝と直接話すことができたのですが、ここで二人の間に残念な行き違いが起こります。
このときの会話が一問一答形式で記録されていて、話が噛み合わなかったといいますか、皇帝が大師の話を理解できなかったのです。
ものすごくテキトーにまとめると、こんな感じ。
皇帝「お寺を建ててお坊さんを保護したり、写経とか頑張ったんだけど、何かご利益ある?ねっ、ねっ、ある?」
達磨大師「いやいや、目先のことだけ考えてても功徳になりませんぞ」
皇帝「…………」
皇帝は、気が抜けたようにガッカリしたとのこと。
まぁ、そりゃそうですわな。短気な人だったらその場で斬捨御免だったかもしれません。
しかし仏教に傾倒するだけあって、梁の皇帝は比較的穏やかな人でした。
(期待してた答えじゃなかったな)と(´・ω・`)な顔を浮かべた(※イメージです)皇帝に対し、大師も(この方とは話が合わなさそうだ。縁がなかったと思って諦めよう)と考え、その場を静かに去ります。
後に皇帝は「やっぱもうちょっといろいろ聞きたい! 大師を探せ!」と命じましたが、既に行方がわからなくなっており、再会は叶いませんでした。
その後、先述の北魏を訪れたようで、実際に何をしたのかはよくわかっていません。
北魏側の記録としても上記の通りあっさりしたものですから、おそらく政治中枢にいるような人物とは会っていないのでしょう。
壁に向かって9年座禅したら手足がなくなった?
代わりに?嵩山少林寺(少林”武術”で有名なお寺・×少林寺拳法)に入り、その壁に向かって9年も座禅をしていたという伝説があります。
そのため手足が壊死してしまい、まさに達磨人形のような状態になってしまったとも。
さすがに水や食事を全く摂っていないということはないでしょうから、誇張も含まれているでしょうね。
ただ、毎日長時間座禅をしていたとすれば、手足に何らかの不調が現れてもおかしくはありません。
そのため動きが制限されてしまったとか、寝たきりになってしまったというのが真相ではないでしょうか。
もっともこれは
「壁のように動じず、真理を見極める」
という宗旨の翻訳ミスともいわれていますけども。やっちまったな。
ちなみに現代でも広州から少林寺まで高速道路でも18~19時間かかるそうです。
当時の徒歩だったら、一体どれだけの日数を要したのか。
既に海を渡ってきてますから体力も覚悟もあったにせよ、信仰の力ってすげぇすね。
弟子もまた仰天エピソード
ついでにいえば、達磨大師の弟子もドえらい根性を持っていました。
慧可(えか)という人です。
既に出家していたものの悟りを開くことができず、苦しんだ末に少林寺へ来ていた達磨大師の元を訪れ、弟子入りさせてくださいと頼みに来ました。
大師は弟子を取るつもりはなかったので、当初これを断ります。
が、慧可は慧可で、何年も修行した上での結論ですから、そのくらいでは引っ込みませんでした。
なんとここで自分の腕を切り落として
「私は利益や名声欲しさに言っているのではありません!」
と豪語したのです。
おいおい、根性焼きってレベルじゃねーぞ!
さすがにこれには大師も仰天し、その度胸に免じて弟子入りを受け入れました。
その後、切り落とした腕はどうしたんですかね。現在だったら手術で再生できそうな気はしますが……。
慧可はその後、禅宗の高僧として名を伝えられていきますので、さほどの人の腕ならば聖遺物的な扱いを受けていてもよさそうです。
「元から片腕がなかった」ともいわれているので、まあ美談は美談として受け取っておくのがいいですかね。
日本の臨済宗や曹洞宗などにつながる
禅宗は、その後五つの宗派に分かれ、日本にも臨済宗や曹洞宗が伝えられました。
同時に手足云々の逸話も伝わり、その姿をデフォルメして達磨人形が作られたそうです。
上記の逸話からよくあんな可愛いらしいシルエットを考えたものですね。
「手足のない人形」って言ったら普通ホラーな方向に行きそうですけども、他にもだるまストーブとかいろんなものの愛称に使われてますし。
ちなみに目を描いて願掛けするのは、一説によると江戸時代に始まった風習だそうです。
当時は疱瘡(天然痘)で目をやられる人が多く、なぜか「目がキレイに描かれているだるまを持っていれば大丈夫」という都市伝説が生まれました。
当然ながらあまり上手に描けていないものは売れ残ることとなり、商人も職人も頭を抱えます。
そこで「じゃあ、お客さんに描いてもらうようにすればいいじゃん! 願掛けってことにすれば皆怒らないし!」というウルトラCな発想の転換をし、今日売られている目のないだるま人形になったとか。
商魂たくましいというか何というか。
何か大きな目標があるときは、未来の自分を叱咤するために置いておくのもいいかもしれません。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
達磨/wikipedia