慶長五年(1600年)4月14日は、上杉家の家老・直江兼続が、いわゆる『直江状』を出したと言われている日です。
徳川家康が『こんな無礼な手紙は見たことがない!』と切れ、会津征伐を決めた手紙だということや、兼続の肝の据わりようがわかるということで有名ですが、実は原本は現存していません。
家康がその場で破り捨てた可能性もなくはありません。
写本とされるものはいくつかあり、現在知られているのは写本あるいは偽物の内容だといわれています。
そんなわけで「有名な割に存在していたかどうかがアヤシイ」手紙なわけにもかかわらず、関ヶ原関連の話をする上では欠かせないものになっています。
では、少し時間を遡って豊臣秀吉が亡くなる直前から振り返ってみましょう。
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領内の政治を進め 政宗を見張り 京都へ上洛
兼続の主・上杉景勝は、五大老の一人として秀吉政権の重きを成していました。
しかし、上杉家の領地は一貫して雪国。
さらに五大老の中で一番領地が遠かったのもまた事実で、何回も上洛を言いつけられると領内の政治がはかどりません。
しかもその合間に、秀吉存命中からアヤシイ動きを繰り返していた伊達政宗ら東北諸大名&関東の家康を見張らなくてはいけませんでした。
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現代的な感覚でものすごく乱暴に例えると、東北の人達に「仕事も家事も育児も完璧にやってね! あと夏の間は京都に単身赴任だからよろしく!」というようなものでしょうか。
常人だったらちゃぶ台ひっくり返すところですが、景勝は寡黙な人だったからなのか、あるいは雪国生まれゆえの我慢強さからなのか、少なくとも表向きキレることはありませんでした。
その代わり?に、こうした状況に(#^ω^)していたのが兼続です。
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秀吉が亡くなり崩れるバランス
直江状(の写し)でも上記の点、特に「当地は年の半分は雪に覆われて何もできないというのに、しょっちゅう上洛しろと言われて困っている」(意訳)ということはかなり強調されています。
ただ、少なくとも秀吉存命中はそうした不満を表に出すことはありませんでした。
【小田原征伐】での物量作戦を見ていますし、秀吉に逆らったところで他の大名に寄ってたかって潰されるのがオチですからね。
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そうなれば近所の政宗や家康は「俺は太閤様の忠実な家臣でーす!!」というポーズをとるために喜んで攻めてきたでしょう。
特に政宗にとって、上杉家が移封された会津はかつて数々の苦難の上に一度手に入れた土地でしたから、待ってましたと言わんばかりに取り返しに来ることは明らかでした。
そんなわけで、東北周辺の安定は秀吉の命によって保たれているも同然。亡くなればその平穏は崩れます。そして……。
慶長3年(1598年)8月、ついに秀吉が逝去しました。
その瞬間を待っていたかのように政権内部が家康の専横状態になると、不満を抱く大名も出てきます。
上杉家では「ケンカを売るなら今だ!」と考えたのでしょう。「石田三成の挙兵は兼続と呼応していた」なんて説もありますね。
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そんなこんなで秀吉の葬儀が終わった後、景勝は会津に戻って領内の整備に取り掛かります。
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