慶応二年(1866年)6月29日は、政治家にして洋画家である黒田清輝が誕生した日です。
本名は「きよてる」、画家としては「せいき」と読みますね。
いっそ漢字も変えてくれたらわかりやすかったのに(ボソッ)。
代表作である『湖畔』や『読書』などが教科書に載っているので、どちらかというと画家としてのほうが有名でしょうか。
『なぜ政治家と両立した?』と不思議に思ってしまいますが、一体どんな生涯を送った人だったのでしょうか。
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芸術の都・パリで完全に開眼してしまう
前述の通り黒田清輝は慶応二年(1866年)、薩摩藩士の子として生まれました。
小さい頃に、子爵位を持っていた伯父の養子になって東京へ。
そのまま二松學舍(現在の二松學舍大学の前身・当時は漢学塾だった)に進み、同時期に鉛筆画や水彩画を開始します。
貴族に列する家のおぼっちゃまですから、本当であればその後は法律や政治についての勉強に邁進しなくてはなりませんでした。
実際、そのために色々な学校へ行ったり、フランスへ留学もしています。
しかし、芸術の都・パリでほかの日本人画家や画商に出会ったことで、なんと画家として生きることを決意。
よく伯父さんに勘当されなかったものですね。
帰国後は美術教育に力を入れ、研究所を開いたり、引き続き絵を描いたり、芸術の世界で生きていました。
しかし、まだ西洋美術に馴染みのない時代に裸婦画を描いたことで、お約束のように論争を巻き起こします。
時には警察から「絵とはいえ、裸の婦女子を公共に飾るとはけしからん!」とお咎めを受け、絵の下半身を布で隠すという滑稽な事件もありました。
その様子から「腰巻事件」とも呼ばれています。
従軍画家として日清戦争に同行したこともあった
話は少々逸れますが、同時期のイギリスでは「家具とかピアノの足ってなんかエロくね?」というトンデモな理由で、ありとあらゆる家具の足にカバーが被せられていたそうで…。
もうちょっと前の時代には「ソファってエロ……(ry」という概念も珍しくなかったらしいのですが、生き物ですらないものから何を感じ取っているんですかね。
日本ではさすがにそこまでの妄想力を発揮する人はいなかったようなので、腰巻事件なんて可愛いものに見えてきます。
春の絵(意味深)にしたって少なくとも一人は人間が描かれてますし。
話が多少前後しますが、黒田はいわゆる従軍画家として日清戦争に行ったこともありました。
当時はまだカメラがそうそう普及していませんでしたし、絵の持つ力は侮れなかったので、画家がマスコミの一員として戦場に行くこともあったのです。
あまり枚数は多くありませんが、現在も戦場や野戦病院の様子を描いたスケッチが残されています。
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