慶応二年(1866年)6月29日は、政治家にして洋画家である黒田清輝が誕生した日です。
本名は「きよてる」、画家としては「せいき」と読みます。
代表作である『湖畔』や『読書』などが教科書に載っているので、どちらかというと画家としてのほうが有名ですかね。
『なぜ政治家と両立した?』と不思議に思ってしまいますが、一体どんな生涯を送った人だったのか。
振り返ってみましょう。

黒田清輝『湖畔』(1897年)/wikipediaより引用

『読書』(1892年)/wikipediaより引用
芸術の都・パリで完全に開眼してしまう
前述の通り黒田清輝は慶応二年(1866年)、薩摩藩士の子として生まれました。
小さい頃に、子爵位を持っていた伯父の養子になって東京へ。
そのまま二松學舍(現在の二松學舍大学の前身・当時は漢学塾だった)に進み、同時期に鉛筆画や水彩画を開始します。
貴族に列する家のおぼっちゃまですから、本当であればその後は法律や政治についての勉強に邁進しなくてはなりませんでした。
実際、そのために色々な学校へ行ったり、1884年からフランスへ留学もしています。

1887年に工事が始まり1889年に完成したエッフェル塔/wikipediaより引用
しかし芸術の都・パリでほかの日本人画家や画商に出会ったことで、なんと画家として生きることを決意。
よく伯父さんに勘当されなかったものです。
1893年に帰国すると、その後は美術教育に力を入れ、研究所を開いたり、引き続き絵を描いたり、芸術の世界で生きていました。
ただし、まだ西洋美術に馴染みのない時代に裸婦画を描いたことで、お約束のように論争を巻き起こします。
時には警察から「絵とはいえ、裸の婦女子を公共に飾るとはけしからん!」とお咎めを受け、絵の下半身を布で隠すという滑稽な事件もありました。
その様子から「腰巻事件」とも呼ばれています。

美術雑誌『アトリヱ』1巻10号に掲載された『朝妝』(1893年)/wikipediaより引用
従軍画家として日清戦争に同行したこともあった
話は少々逸れますが、同時期のイギリスでは「家具とかピアノの足ってなんかエロくね?」というトンデモな理由で、ありとあらゆる家具の足にカバーが被せられていたそうで…。
もうちょっと前の時代には「ソファってエロ……(ry」という概念も珍しくなかったらしいのですが、生き物ですらないものから何を感じ取っているんですかね。
日本ではさすがにそこまでの妄想力を発揮する人はいなかったようなので、腰巻事件なんて可愛いものに見えてきます。
春の絵(意味深)にしたって少なくとも一人は人間が描かれてますし。
話が多少前後しますが、黒田はいわゆる従軍画家として日清戦争に行ったこともありました。
当時はまだカメラがそうそう普及していませんでしたし、絵の持つ力は侮れなかったので、画家がマスコミの一員として戦場に行くこともあったのです。
あまり枚数は多くありませんが、現在も戦場や野戦病院の様子を描いたスケッチが残されています。
亡くなる2~3ヶ月ほど前に見た『梅林』で絶筆
そんな感じで画業に励んでいた黒田ですが、やがて転機が訪れます。
義父が亡くなったため、爵位を継いで政界に入らなくてはならなくなったのです。
とはいえ黒田自身も1920年に貴族院議員になって四年で亡くなってしまったので、あまり政治家としての功績は残っていません。
だからこそ、黒田の名前を聞いても画家というイメージしかないのでしょうね。
黒田は亡くなる前に一度倒れていて、しばらく静養に入っていたのですが、起き上がれる間は絵のことを決して忘れませんでした。
絶筆にして最後の作品とされる「梅林」は、亡くなる2~3ヶ月ほど前に、静養先の病室から見た風景を描いたものとされているのです。

『梅林』(1924年)/wikipediaより引用
筆ではなくペインティングナイフ(平たいコテやノミ・やすりのような形をした道具)を多用していたらしく、他の絵よりも荒々しさといいますか、生への執念というか、絵に対する妄執がうかがえる気がしますね。
「遺産は美術のために使ってほしい」
本人としてはこの後、筆でもう少し描きこみを入れたかったのかもしれませんが、それは叶いませんでした。
江戸時代の浮世絵と比較してみるとすぐわかります。黒田を含め、この時代からは人間や物体を立体的に描くのが主流になっていきます。
明治時代に入って「西洋文化サイコー! 西洋に追いつけ追い越せ!!」という風潮が強かったからで、そのために日本画や浮世絵はしばらくの間、忘れられてしまいました。
そもそも江戸時代の浮世絵は、ものによっては現代の新聞紙や雑誌などと同程度の値段しかなく、ときには陶磁器の緩衝材に使われたりしたぐらいです。
まぁ、輸出時の緩衝材に使われたからヨーロッパへ渡って、葛飾北斎や歌川広重、喜多川歌麿などの名前が知れ渡ることになるのですが……。
黒田は遺言で「遺産は美術のために使ってほしい」と書き残していました。

黒田清輝/wikipediaより引用
それに応じて建てられたのが、現在東京国立博物館のすぐ近くに建っている「黒田記念館」です。
入館料は無料とのことですので、トーハクや動物園の喧騒に疲れたら、こちらへ立ち寄ってみるのもいいかもしれませんね。
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【参考】
国史大辞典
文化遺産オンライン(→link)
黒田記念館(→link)
黒田清輝/Wikipedia





