1819年(日本では江戸時代・文政二年)8月25日は、蒸気機関の父とされるジェームズ・ワットが亡くなった日です。
蒸気機関というと、ついつい汽車を想像してしまいますが、実は他にもいろいろな機械の元になっています。
ワットの生涯と共に見ていきましょう。
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スコットランドで店を開けず途方に暮れていたら……
ワットは1736年にスコットランドで生まれました。
父は船大工兼商人、母は名家のお嬢様で、ワットに勉強を教えるほど教養のある人だったそうです。
当時の女性の地位を考えれば、かなりの才女だったと見て間違いないでしょう。
しかしその母が早くに亡くなり、ワット18歳のとき父親も体を悪くしたため、手に職をつけようとロンドンに出てきました。
計測機器の職人に弟子入りしたそうなのですが、元々素養があったのか、通常4年ほどかかる技術の習得を1年でマスターしてしまったそうです。
ワットに驚異的な頭脳があったから――と考える方が自然でしょうかね。
しかし、彼の頭脳と技術は即座に家系の支えにはなりませんでした。
スコットランドに戻り、職人としてお店を開こうとしたワットに、職人組合のお偉いさんが「7年勉強しないとダメな決まりなんで」(意訳)と冷たく言い放ったのです。
そういう決まりって、年数よりも「7年分の技術と経験」があるかどうかが重要な気がするのですが……。
この頃ワットはまだ20歳そこそこですから、知識はあっても経験がないだろうとみなされたのでしょう。
世の中先立つものはお金です。
このままではせっかく勉強したことが全部無駄になってしまいます。
そのタイミングで、彼に別口の仕事が舞い込みました。
グラスゴー大学から、
「天文学の機器を直してくれる人を探しているんだが、君やってくれないかね」
と言ってきたのです。
勤務先で「蒸気機関」の研究が始まっていた
ワットは喜び勇んでこの仕事を請け、完璧に機材の手入れをしてみせました。
依頼主も満足し、これを伝え聞いた同学の教授たちが
「他の仕事がないのなら、大学で仕事をしたらどうかね」
と言ってくれたおかげで、ワットはようやく安定した仕事を得ることができたのです。
教授たちとの関係もよく、収入が安定したおかげで結婚もでき、子宝にも恵まれました。
ここからがワットの人生、そしてその後の世界に大きく影響するところです。
グラスゴー大学では当時、蒸気機関の研究が始まっていました。
ワットは教授陣のうち特に仲の良かったジョン・ロビソンという人から、蒸気機関の話を聞き、大いに興味を惹かれます。
しかし、機械の知識はあっても物理学の知識が足りなかったためか、なかなかうまく行きません。
それでもロビソンの助けを受けて知識を深め、少しずつ改良を行いながら蒸気機関を進化させていきます。
そしてしばらくの間「ああでもないこうでもない」と試行錯誤を重ね……ものすごく乱暴に言うと、
「うまく動かないのは、途中で無駄な部分にエネルギーが使われているからだった。そこを改善したらうまくいった」
という感じです、たぶん。
理系の方怒らないでください、すいませんm(_ _)m
1776年、業務用の動力機関が完成! 20年が経過していた
何はともあれ紆余曲折の果てにワットは、実用的な蒸気機関を作ることができました。
何を作るにもお金と材料が必要なのは世の常で、蒸気機関もまたしかり。
というわけで、次に必要になったのはスポンサーと、部品を作ってくれる職人たちでした。
スポンサーとお金は割とすんなり集まりました。
が、そのほとんどは特許取得のために使わざるをえず、ワットも自ら土木業などで働かなくてはならなかったそうです。
職人についてはスポンサーを通じて取引ができるようになり、後にその斡旋をしてくれた人とワットは共同で会社を作るほど親密になりました。
そして1776年、ついに業務用の動力機関が完成します。
実に、ワットがグラスゴーに腰を落ち着けてから、20年ほど経っていました。
余談ですが、この間、妻と子供を亡くすなど、プライベートでも辛いことが多々ある中での偉業です。
もしかすると、蒸気機関を完成させようという意思がワットを勇気付けたのかもしれませんね。
鉱山の採掘中に出てくる水を汲み上げるポンプ大活躍!
この動力機関がどういうものだったか?
というとまた物理学のお話になってしまうのですが、これまた大幅に簡略すると「でっかいくみ上げポンプ」みたいなものでした。
現在でも小規模なマンションの屋上などに貯水槽がありますが、そこまで水を引き上げるときに使う「揚水ポンプ」の原型になったものですね。
今のような高層建築がない時代に、そんなものを何に使うのか?
そんな疑問をお持ちの方もいそうですが……実はこれ、鉱山でとても役に立ったのです。
鉱山では、露天掘りならともかく、坑道を掘っていけばいずれどこからか水が出てきます。
当然ながら、そのまま放置していては危険なことこの上ありません。
しかし、人力でくみ出す手間と時間をかけるわけにも行きません。
そこでポンプを使ったのです。
これなら比較的短時間で排水を行うことができるということで、ワットの元へ注文が相次ぎます。
このときもワット自ら組み立てに手を動かし、まさに「忙殺」という言葉がふさわしいような状態だったとか。
そして物理用語の「仕事率=ワット」に……
しばらくして、頭のやわらかい人が
「ワットの考えたこの仕組みで、もっと違う作業もできるようになるんじゃないか?」
と考え始めました。
ワットはこの要望にも対応すべく、さまざまな試行錯誤や特許との兼ね合いを経て、さらに新たな機械を生み出します。
要望が出るたびにワットはいろいろな機関を考え出し、さらに多くの業界へ乗り出していったのでした。
わかりやすいところでは、現在のコピー機の前身にあたるものも開発しております。
20世紀まで現役だったそうなので、ワットの才能と技術がいかに優れていたかがわかるというものです。
それでいて完全な仕事人間だったかというとそうでもなく、二人目の妻とヨーロッパを旅行したり、ウェールズに別荘を買って優雅に過ごしたりもしていたようで。
きっとオン・オフの切り替えもうまい人だったんでしょうね。
だからこそ上記のような多忙ぶりでありながら、83歳もの長寿を全うできたのではないでしょうか。
イギリスでは、ワットの生み出した機械を元に産業革命が始まり、近代化をいち早く進めました。
その功績を称え、ワットの名は仕事率の単位として現在も多々使われています。
仕事率とは一定時間内にどの程度の仕事が行われているかという割合のことです。
この場合の仕事とは職業的な意味ではなく、物がどのくらい動いたかという物理用語のほうなのでお間違いなく。
たぶん理系の方でもなければ、こういう単位を日常会話で使うことはないと思いますが、自分の名前が後世になっても慣れ親しまれているってのは、やっぱり嬉しいもんですかね。
私にはその機会はなさそうで……。
長月 七紀・記
【参考】
ジェームズ・ワット/Wikipedia