「よし、社員の声に耳を傾けるぞ! 社内に目安箱を置くから何でも言ってきなさい」
なんてコト言う社長に限って、パフォーマンスばかりで実際は聞く耳なんて持っちゃいない――ってのは、昭和のダメ会社あるあるですね。
いずれにせよ、こうした場面でよく耳にするのが「目安箱」。
もとは江戸時代に八代将軍・徳川吉宗の考案で設置された投書箱だというのはよく知られた話でしょう。
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享保6年(1721年)8月2日、幕府の評定所前に設置されたのが始まりです。
実は当時、この箱は「目安箱」などと呼ばれていませんでした。
単に「箱」と呼ばれていたんです。
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自分の意見が将軍様の目に触れるチャ~ンス!
「目安箱」というのは明治政府が使った呼び方。
江戸時代には、幕臣以外の誰もが不満や意見を投書することができました。
設置されたのは江戸城辰ノ口評定所前で、現在の東京駅北口付近にあたります。
その売りは、将軍自ら鍵を開けて投書の中身を検分したということでしょう。
一般庶民の意見をマツケンもとい徳川吉宗に直接伝えることができた、まさに庶民と将軍との間を結ぶホットラインでした。
自分の意見が直接将軍様の目に触れるなんて心が躍りますよね。
しかし、いつの時代も真偽の疑わしい、確かめるのが困難な訴えが少なくなかったようです。
将軍の側近によってまとめられた「訴状留」によると、訴えのほとんどが役人による不正疑い、つまり「チクリ」でした。
そのため目安箱にはルールがありました。
投書内容は以下の二つのどちらかだけ。
1)政治に役立つ意見
2)役人の悪事・不正に関する通報
単なる不満や人の悪口などはNGです。
また、自分に直接関係のないことを人に頼まれて訴えるというのも認められませんでした。
実際、政治に反映された意見もあった
そして箱が設置されるのも毎月3日の午前中のみと決まっています。
しかも投書には住所、氏名を明記しなければなりませんでした。
こういったルールを守れない投書は?
焼却処分されます。
つまり本気で訴えたい内容ならば、決められた日に割と早めに起き、自分の名をオープンにして投書する覚悟がなければいけなかったのです。ちょっと面倒だな~。
と、これだけ細かい制約があっても毎回かなりの数の投書が集まりました。
結果、動いた政治は結構あります。例えば……。
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