大河ドラマ『豊臣兄弟』の第10回放送では、織田信長と足利義昭による上洛が描かれました。
美濃から都へ向かうには、北近江の浅井氏、南近江の六角氏という大きな壁が立ちはだかります。そこで重要になるのが、もう一つの焦点である「お市の方の結婚」です。
これまで信長の側で存在感を見せ、帰蝶(濃姫)の出番を奪うほど目立ってきた彼女ですが、今回はどのような輿入れが描かれるのか。
史実と照らし合わせながら、第10回「信長上洛」を振り返ってみましょう。
豊臣秀長の性格と蜂須賀正勝の茶器
まずは豊臣秀長(仲野太賀さん)の政務場面からスタート。
豊臣兄弟の部隊内で色々と不平不満があるようで、それを捌く姿が描かれ、兵士一人一人の名前を覚えていることに蜂須賀正勝(高橋努さん)が驚いています。
几帳面で気が利く、そして人望が厚い、そんな秀長の長所が再確認されているのでしょう。
そうした秀長の人物像は、果たして史実通りなのか?
実はそれって、藤堂高虎の伝記『聿脩録(いっしゅうろく)』に記された「温厚かつ寛大で慈悲深い」という記述からではないか?
その伝記は文政元年(1818年)に刊行されたものであり、秀長の人柄を直接伝える同時代の史料は現状見当たらない――歴史学者の河内将芳氏はそう指摘されています。
つまり秀長が人望厚いとは史料からは言い切れない。
とはいえ、豊臣秀吉(池松壮亮さん)を補佐して豊臣政権を運営したことは間違いありませんので、兄弟のどちらか、あるいは両方が非常に魅力的だった可能性は十分にあるでしょう。
あくまで状況から推察できる人物像というわけですね。
同じ場面で、蜂須賀正勝が手にした茶器は30貫(ざっくり300万円ぐらいの価値)とされていました。

史実では、上洛した信長が、松永久秀から名物「九十九髪茄子」を贈られますので、その前振りといったところでしょうか。
「たかが茶入れで1万貫じゃと! わ、わしの茶器の何倍じゃ!!」
そんな小六のリアクションも見てみたくなりますね。
なお、茶器マニアの信長は久秀からの贈り物だけでなく、方々から買い取ったりして以下のようなコレクター魂を発揮しております。
・松永久秀から【九十九髪茄子の茶入れ】
・今井宗久から【松島茶壺・紹鴎茄子の茶入れ】
・大文字屋から【初花肩衝(かたつき)】
・祐乗坊から【富士茄子の茶入れ】
・池上如慶から【かぶらなしの花入れ】
・薬師院から【小松島の茶壷】
・油屋常祐から【柑子の花入れ】
・石山本願寺から【白天目茶碗】
・三好康長から【三日月の葉茶壷】
・北向道陳から【松花茶壺】
・朝倉家から【本能寺文琳(茶入れ)】
俗に「名物狩り」と呼ばれ、語感から何やら横暴な感じもありますが、茶器を強奪するわけではなくきちんとした対価を支払ったものです。
よろしければ別記事「信長が集めた名物茶器と逸話まとめ」をご覧ください。
楽市楽座
永禄十年(1567年)、美濃の城下町に明智光秀と従者(足利義昭)がやってきました。
「わずか数ヶ月で町が凄い栄えている」
光秀にそう褒められた秀吉は、信長様の政策が素晴らしいからだとニコニコしながら、関所の撤廃と楽市楽座によって発展していると解説します。
教科書でもお馴染みの楽市楽座ですね。
ただし、楽市楽座は信長だけの独創というわけではなく、当時として特別に珍しい施策でもありません。

織田信長/wikimedia commons
確かに信長は、永禄十年(1567年)10月に「楽市場」という木札を掲げましたが、斎藤龍興との合戦が起きたとき、その戦火から逃れた人々に戻ってきてもらうのが目的だったのです。
「美濃の城下町は楽市楽座があるらしい! 儲かるから行こう!」
そんな風に近隣エリアの商人たちがこぞってやって来る趣旨のものでもありません。
そもそも楽市令は、18年前の天文十八年(1549年)に南近江の六角氏が出した記録も残されています。
しかも、それですら商人たちの利益のため自然に導入されたようで、「楽市楽座じゃ!」と必殺技のように使われたわけではありませんでした。
こちらの詳細も、よろしければ別記事「楽市楽座は信長が最初だった?」をご覧ください。
足利義昭と織田信長の対面
明智光秀と従者、織田信長と家臣たちがご対面。
信長はすかさずプレッシャーをかけるように光秀に話します。
「わしに足利義昭様を擁して上洛せよと申すか、なにゆえ我らに白羽の矢が立った?」
「ほかが動かぬゆえ」
「わかった、上洛しよう!」
トントン拍子に話は進み、光秀の背後に控える従者が足利義昭だったことも、その流れで明かされました。

足利義昭/wikimedia commons
それにしても……。
今回の信長と義昭の対面シーンは、何かと誤解される内容でした。
ドラマの中では、義昭からの上洛の要請が、あたかも初めてのように描かれていましたが、史実では異なります。
一年前の永禄九年8月に「幻の上洛計画」があったのです。
当時は、近江にいる義昭を信長が奉じて上洛する、計画の日程まで決まっていましたが、そのタイミングで六角氏が裏切り、足利義昭は近江から脱出。
若狭を経て越前に入り、朝倉義景を頼っています。
しかし義景が全く動かず、全国の諸将に呼びかけても反応がないため、美濃を平定した信長を再び頼ったわけです。
お市の方が浅井長政に輿入れ
お市の方と浅井長政の結婚が決まりました。
彼女の結婚時期については諸説あるのですが、本作の時代考証・黒田基樹氏は、和田惟政の書状から永禄十年(1567年)という見解。
お市の生年は推定で天文十九年(1550年)、数えで18歳であり、このとき浅井長政は23歳でした。
本作では、帰蝶(濃姫)の出番を奪うようにして頻繁に登場するお市の方。

お市の方/wikipediaより引用
「桶狭間の戦い」の頃のお市は11歳前後とみられるため、あの段階から信長の話し相手として頻繁に登場させるのは、やや脚色が強い印象です。
それでも今後の豊臣兄弟や柴田勝家との関わりを見据えて強引にねじ込んできたのでしょう。
柴田勝家がお市の方と二人になってドギマギするのは、本能寺の変後、「清洲会議」を経て、二人が結婚するためですかね。
本作は、結婚を恋愛感情と結びつけて描かれますが、基本的に彼らの立場ではあり得ない話で、秀吉と寧々も浅野長勝の考えからでは?という指摘もあります。
こちらも詳細は別記事「秀吉と寧々は恋愛結婚じゃなかった」をご覧ください。
勝家とお市の結婚については、数日以内に別記事にて公開させていただきます。
裏切る気満々の徳川家康
本作の徳川家康は、かなり屈折した人物像として描かれており、どうやら今後もこの路線でいくのでしょう。
第5回放送で清洲同盟が結ばれた後、帰り道で秀吉から出世のコツを尋ねられたときに、
「全て逆のことを言うてやったわw 織田の下侍になぜ教えてやらねばならんのだw」
と大笑いしていました。
今回もまた「織田が上洛している隙に尾張と美濃を攻められたのに!」と悔しがっていました。

徳川家康/wikipediaより引用
果たしてあれは本気なのかポーズなのか。
真に知力の高い人物ならば、兄弟のような家臣・石川数正の前だとしても、そんな恐ろしい本音は明かさないでしょう。
いずれにせよ、あまりに不用意な発言ではあります。
実際、石川数正は後に豊臣秀吉のもとへ出奔するわけで、家康の“裏の顔”が伝わると何かと痛いところをついて来られるかもしれません。
逆に、こういう家康だからこそ、秀吉の腹を探るため、数正と通じたまま送り出すという策もあり得るのか。
その辺の攻防は意外と面白くなってくるかもしれませんね。
六角義賢の箕作城を攻略して京へ
永禄十一年(1568年)9月7日、いよいよ織田徳川連合軍と義昭らの上洛が始まります。
進軍ルートをマップで確認。
美濃から近江へ入り、まず最初に立ちはだかるのが六角義賢の箕作城(みつくりじょう)ですね。

六角承禎(六角義賢)の錦絵/wikimedia commons
本来でしたら、そのすぐ隣にある六角氏の本拠地・観音寺城が表示されてもよさそうですが、実際に戦闘をしたのは箕作城だけなので、マップではそんな表記になったのでしょう。
史実の六角父子は、戦わずして観音寺城から逃亡したのです。
そこから目的地の京までは?
ドラマでは三好三人衆が芥川城(大阪府高槻市)で待ち構えているような描き方で、戦わずして阿波へ引いたことになっていました。
しかし、ここはさすがに彼らの行動を省略しすぎでしょう。
三好三人衆の石成友通(いわなりともみち)が勝龍寺城(京都府長岡京市)で防御をしておりました。
同城は、柴田勝家らの攻撃を受けてすぐに敗走しますが、そのほかにも摂津や河内の諸城で対抗し続け、結局、織田方の大軍に押されて阿波へ戻ったという流れです。
9月30日、織田信長は、足利義昭と共に芥川城へ入りました。
15代将軍・足利義昭
河内や摂津の諸城を攻略した信長は10月14日、京都に戻って本圀寺(あるいは『言継卿記』では清水寺と記載)に泊まります。
そしてその4日後の18日、足利義昭は室町幕府の15代将軍に補任されました。
劇中では、このとき「副将軍になってくれ」と言われて固辞していましたが、実際は「副将軍か管領職」を提示されています。
細かい話ですよね。
ただ『信長公記』では、信長が両職を断ったことについて、都や地方の人々が「珍しいことだ」と称賛した様子が記されています。太田牛一が信長を称えるためでしょう。
実は翌永禄十二年(1569年)3月にも正親町天皇から副将軍の要請があり、これも断っています。
劇中では、明智光秀と足利義昭が「腹の底が見えぬ」「厄介じゃ」と言い、竹中半兵衛だけが信長の真意を見抜いていたかのように描かれていました。

竹中半兵衛/wikimedia commons
信長としては義昭との主従関係をキッパリ拒絶したわけで、当時からそういう見方は指摘されています。
もちろん幕府に対して非協力的というわけではなく、むしろ再興のため尽力しており、例えば義昭の御所として二条城普請も手掛けることにしました。
あるいは将軍宣下を受ける足利義昭のため、どんな儀礼が行われるか、いかなる礼服を用意すればよいか等の細かな準備についても、信長家臣の村井貞勝に請け負わせています。
村井貞勝は京都所司代職に就き、治安維持も任されました。
信長上洛への京都の反応
織田信長と足利義昭の上洛に対し、都の人々はどんな反応をしていたか。
当初は尾張の田舎大名がやってきて乱暴狼藉を働くと警戒されていました。
足軽などは、攻め込んだ先で物や人を奪い取ることが稼ぎにもなるわけで、京都の人々が恐れるのも当然でしょう。
御所に家財道具などを持ち込み隠した公家もいたほどです。
しかし、そうした心配は杞憂に終わります。織田軍はかなり厳格に統制されており、すぐに治安は保たれ、市中は平静を取り戻していきました。

信長甲冑イメージ/絵・富永商太
劇中では銭を撒く演出がありましたが、そうした記録は確認しにくいところです。
最後に、信長は「自分と敵対するかどうか?」リトマス試験紙のごとく各地の有力大名へ書状を出します。
・甲斐の武田信玄
・越後の上杉謙信
・越前の朝倉義景
・土佐の長宗我部元親
・荒木村重
・松永久秀
しかし、信玄まで煽ってしまうのは少しおかしい。
なんせ信長は、美濃を制する以前から、武田信玄との衝突を恐れ、避けるために「甲尾同盟」を結んでいます。
自身の姪を養女にして、永禄八年(1565年)11月、武田勝頼に嫁がせているのです。
それなのに劇中の信長のような書状を送ってしまえば「こいつ、上洛して調子に乗ってんか!」と、高嶋政伸さん演じる信玄がキレても不思議ではなさそう……。
※詳細は別記事「美濃制圧後に迫る“武田信玄の脅威”」をご覧ください
松永久秀も、ずっと以前から信長と連絡を取り合っています。
久秀は、このころ三好三人衆と袂を分かっており、それに対抗するため上洛準備を進める信長との誼を通じていたのですね。
ゆえに、あんな書状が送られてきたら、こちらも「信長さん、急にどうした!」と驚かれるでしょう。
トータス松本さんの荒木村重は、はやくも饅頭エピソードを彷彿とさせる描写がぶっこんできましたね。

荒木村重/wikimedia commons
まとめ
明智光秀と足利義昭が知性的でよかったです。
胸を撫で下ろしました。
なんせ作品によっては「さすがにそれは酷すぎるだろ……」というバカ殿・義昭やガラの悪い光秀で描かれ、本作でもどうなることかと心配していたのです。
それが、尾上右近さんが義昭を演じることで、真っ当な敵となった。
やはり歌舞伎俳優は雰囲気あって素晴らしいですね。
次に待ち構えているのが竹中直人さん演じる松永久秀であり、今後、彼らがどう絡んでいくか。
上洛イベント以降は、キャラが豊富になってワクワクしますね。
そのぶんややこしくもなりますので、次週以降も史実の背景に注目しながらレビューをお送りしたいと思います。
なお、今後も何かと絡んでくる三好三人衆については別記事「三好三人衆とは何者か」や「本圀寺の変」を併せてご覧いただければ。
参考文献
河内将芳『図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石』(2025年5月 戎光祥出版)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
今谷明『戦国時代の貴族: 言継卿記が描く京都』(2002年3月 講談社)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
【TOP画像】足利義昭・織田信長・明智光秀/wikimedia commons
