日本史から学んだ方にはイメージしにくいかもしれませんが、世界の国の多くは名前や領土の変遷を幾度か重ねて今日に至っております。
ローマ帝国が東西に分かれてフランク王国ができ、同じように東西に分かれてフランス・神聖ローマ帝国になったとか、神聖ローマ帝国はその後さらにドイツになったとか。
それだけ国家が存続するのは難しいということですが、中にはほぼ同じ場所・同じ名前で続いてきた国もあります。
本日はその一つ、日本よりも長い歴史を持つあの国のお話です。
1892年(明治二十五年)7月23日は、エチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が誕生した日です。
「そもそもエチオピアってどこ?」という方のほうが多い予感がしますので、地図を見るところからいきましょう。
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ソロモン王とシバの女王子供がアクスム王国を建てた
エチオピアは、日本から見てひたすら南西に突き進み、インドとアラビア半島を通り過ぎた辺りの南にある国です。
日本の約三倍の面積に、9700万人ほどの人が在住。
アフリカのサハラ砂漠以南の地域では、二番目に人口が多いとのことです。
当コーナーでは、以前「コーヒー発祥説がある国」としてご紹介したことがありますね。
コーヒーの歴史 起源は9世紀のエチオピア 山羊飼いのカルディ少年が発見!?
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一体、この国はどんな道を歩んできたのか。
エチオピアは、旧約聖書でソロモン王に知恵比べを挑んだ「シバの女王」由来の地とされています。
ソロモン王とシバの女王の子供が、エチオピアの元になったアクスム王国を建てたといわれているのです。
シバの女王って正式にソロモン王と結婚したわけでもありませんし、そんなに長期間滞在したわけでもないはずなんですか、よく子供ができたものですね。ハーレクイン小説のようです。
ソロモン王は紀元前900年代の人だと言われていますので、その子供というと、長生きしたとしても紀元前800年代半ばくらいでしょうか。
その時代から続く国と見た場合、エチオピアは連続した歴史を持つ世界最古の国ということもできます。
たまに「エチオピアは日本よりも古い皇室があった」といわれることがありますが、それはこの辺からきていると思われます。
まぁ日本の皇室の場合、神話系のお話と古墳など考古学的な分析からとではかなり差があって、なかなか微妙なところですね。
世界遺産「ラリベラの岩窟教会群」は12世紀頃に築かれる
アクスム王国はその後、紅海沿岸にいくつか町を作り、発展していきました。
一時は対岸にあるイエメンの一部まで支配していたとか。
エチオピアが帝国になったのは、12世紀頃からのことです。
世界遺産になった「ラリベラの岩窟教会群」などもこの頃築かれました。
この教会は上から見ると十字型になっていて、一度見たら忘れられないようなインパクトがあります。
歴史的に最も有名なのは、1262年から1974年まで非常に長きに渡って続いたソロモン朝でしょう。
ただし17~18世紀頃は、日本でいう戦国時代のような感じでした。
どこでもあるもんなんですね。
そして20世紀になると、他のアフリカ諸国同様、ヨーロッパの脅威にさらされることになります。
ハイレ・セラシエ1世の時代は、エチオピアはイタリアに侵略され始めておりました。
大日本帝国憲法を元にエチオピア初の成文憲法を作ったり、近代国家へ向けて歩もうとしていたのですが、ハイレ・セラシエ1世即位の翌年に再びイタリアが攻め込んできます。
理由は「過剰になったイタリアの人口をエチオピアに移住させるため」という、なんとも身勝手なもので。
普通に移民させてくれって頼めばいいのになぁ(´・ω・`)
二回目の戦いではエチオピア軍の敗北に終わり、1941年までエチオピアはイタリアの植民地となりました。
ハイレ・セラシエ1世は、ジブチ経由でロンドンに亡命して助かりましたが、将来への悪影響を残すことにもなってしまいます。
皇帝としては「イタリア軍が毒ガスを使ったことをヨーロッパの世論に訴えかけて、エチオピアを救おう」と考えていたようなのですが、多くの国民やお偉いさんには「皇帝が国を見捨てて自分たちだけ逃げた」としか映らなかったのです。
第二次世界大戦では伊と英が同国を戦場に
イタリアの支配中は「黒い獅子たち」と呼ばれるレジスタンスが反イタリア活動をしていました。
しかし、それがキッカケとなり、レジスタンスに少しでも関係していると思われてしまった人たちが数千人単位で処刑されていきます。
イタリア軍の手におえないほどの数で、刑務所が足りなくなり、動物用の屠殺場で処刑された人も多かったというからおぞましや……。
第二次世界大戦が始まると、エチオピアの地でイタリア軍vsイギリス軍の戦いが起こります。
最終的にはイギリスが勝利し、ハイレ・セラシエ1世は帰国することができました。
終戦直後はイギリス軍による軍政が行われ、しばらくして無事独立を回復しています。
1952年にはお隣のエリトリアと連邦を組み、10年後に併合。
しかし、戦中の皇帝に対する不信感や東部の反政府闘争、干ばつによる食糧危機で10万人もの死者が出たこと、オイルショックによる物価高騰などによって、帝政や政府への反感が高まります。
そしてついに陸軍によって反乱が起き、ハイレ・セラシエ1世は1974年に廃位となり、翌年暗殺されてしまいました。
遺骨は1992年に見つかり、2000年になってようやく埋葬されています。
帝政廃止後、エチオピアは一時社会主義になったのですが、スタートしたばかりの社会主義国家のお約束で、失政により数十万人が殺害されるという大惨事が起きてしまいました。
死者が浮かばれないどころか、何のために帝政廃止したんだかわかりませんね。
これによってさらに20年ほどの間、政治的に迷走してしまったこともあり、1993年にエリトリアが独立。
エチオピアも「エチオピア連邦民主共和国」と改称して再スタートをきりました。
しかし、それからも混乱が続きます。
1998年にエリトリアとは国境付近の領有権を巡って戦争が勃発し、2000年にアフリカ統一機構の提案で停戦、緩衝地帯が設置されて一応落ち着いたことになっています。
その後も干ばつなどで、社会情勢的には大変ですが……せめて戦争はやめてほしいものですね。
ツッコミどころ満載な「日本との出会い」
日本とエチオピアが初めて関係したのは、江戸時代の1675年です。
将軍で言えば四代・徳川家綱の頃ということになっています。
といっても、このときは
【アルメニア人の商人が、エチオピア諸王の大使を勝手に名乗って、インドネシアからシマウマ2頭を持って行った】
というツッコミどころしかない感じですので、カウントしていいものかどうか(´・ω・`)
日本からは銀と衣類を返礼として送ったそうで、その後どうなったんですかね。
そんな感じなので国同士の付き合いが始まるのは、明治時代のことです。
福沢諭吉が国交樹立に先駆けて、1869年の本に「阿彌志仁屋(あびしにあ)」と書いていたこともありました。
おそらく、ヨーロッパ人がエチオピアのことを「アビシニア」と呼んでいたことからだと思われます。
猫の品種にも「アビシニアン」というのがいますね。
1896年には大山巌が「イタリアがエチオピアを攻めるっていうから、観戦武官を派遣したい」と言ったことがあります。
結局イタリアから断られましたが、この頃までにある程度情報が入ってきていたのでしょうね。
最初の直接的な接触は、エチオピアが国際連盟に加盟したときです。
即位前のハイレ・セラシエ1世が当時摂政として国際連盟に出席しており、その帰りにエジプトで日本領事館副領事・黒木時次郎と会見しました。
黒木はその足でエチオピアの首都・アディスアベバを訪問したそうなのですが……スケジュールが凄いなっ!
黒木は外務省に「エチオピアとお付き合いすると良さそうですよ」と報告し、数年後に再びエチオピアを訪れています。
個人的に仕事の早い人だったんですかね。
そして1927年に、日本とエチオピアは通商友好条約を締結。1930年にハイレ・セラシエ1世が即位したときは、日本からもトルコ大使が戴冠式に参加しており、急速に接近した感があります。
第二次世界大戦では敵国になるも国交回復は迅速に
両国間の貿易は活発化していき、エチオピアからは皮革・コーヒーが、日本からは綿製品が主に輸出されまいした。
win-winに近い関係ですね。
しかし、イタリア・フランス・イギリスあたりが
「オメーら勝手に商売してんじゃねーよ」(※イメージです)
と睨んできます。
なぜヨソの国交に口を出せると思ってるんですかね(#^ω^)
たまに話題になる「エチオピア皇子と日本人が結婚する予定だった」という話は、この頃エチオピア皇室の縁戚であるアラヤ・アババという人が、日本人の妃を求めたことによるものです。
日本側でも割と乗り気で、人選まで終わっていたそうなのですが、結局ヨーロッパ諸国の圧力で取りやめになったといわれています。
それでも日本とエチオピアの間で文化的なヤリトリは続きました。
お互いの国を紹介した本が出版されたり、「エチオピアの唄」というレコードが出されたり。
そこまで大規模にはならない=他国からイチャモンをつけられないレベルではありましたが続いていたのです。
第二次世界大戦が始まると、エチオピアは日本に宣戦布告しました。
1942年のことです。
しかし、場所が離れていることもあるせいか、戦闘になることはありませんでした。
朝鮮戦争時にはエチオピア軍が参加し、後方の休暇地として横浜市が使われたそうです。
また、1951年のサンフランシスコ講和条約にエチオピアも調印・批准したため、日本とエチオピアは国交を回復させることができました。
直接戦っていなかったのがよかったんでしょうね。
アフリカ都市への定期運行便が飛ぶ唯一の国
国交回復の翌年にはハイレ・セラシエ1世が戦後初めて国家元首として来日し、相互に大使館も開かれるなど、何事もなかったかのように付き合いが始まっています。
当時の皇太子・皇太子妃もエチオピアを訪問されました。
上記の通り、この間にエチオピアの国内がとんでもないことになっているので、喜んでいいのかビミョーな感じですが……。
最近では、エチオピア航空が「日本とアフリカ大陸の都市を結ぶ唯一の定期便運航会社」となりました。
ロゴマークがなかなかおしゃれで素敵な航空会社です。
ルートとしては「成田~香港~アディスアベバ」と「羽田~バンコク~アディスアベバ」の二つがあります。航続距離や乗務員の負担などもあるので直行便は難しそうですが、今後の技術発展に期待というところでしょうか。
アディスアベバからはアフリカや南米への乗り継ぎができるので、情勢が落ち着けば、日本人の利用客も増えるかもしれませんね。
長月 七紀・記
【参考】
ハイレ・セラシエ1世/Wikipedia
日本とエチオピアの関係/Wikipedia
エチオピア帝国/Wikipedia
エチオピア航空