五代友厚/国立国会図書館蔵

幕末・維新

五代友厚(五代才助)史実の人物像に迫る!薩摩の経済人49年の生涯とは

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薩英戦争を阻止せよ!

文久3年(1863年)、五代はとんでもない知らせを聞きました。

生麦事件が発生し、英国艦隊が薩摩を攻撃しに向かっていると知ったのです。

生麦事件
生麦事件でイギリス人奥さんは頭髪を剃られ 英国vs薩摩に発展する

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五代の顔が青ざめました。

『こんままイギリスと戦っても、勝ち目はなか』

五代は英国艦隊は長崎に寄港すると読みました。

そこで直談判し、賠償金一万ポンドを払い、自分が責めを負って切腹しようと考えます。腹を切っておさめようと決断するあたり、薩摩武士の激しい責任感が見て取れますね。

ところが、です。

英国艦隊は長崎によらずに、薩摩を目指しました。

しかも、あろうことか、薩摩藩内は、主戦論が有力。五代は、海外派遣経験のある松木弘安、通詞の堀孝之とともに、三隻の軍艦に乗って敵を待ち受けました。

松木弘安のちに寺島宗則/Wikipediaより引用

人選からして、講和目的でしょう。

ドラマ西郷どんで西郷の郷中仲間とされている有村俊斎海江田信義)などは、このとき物売りに変装して奇襲攻撃をかけるつもりであったと伝わります。

有村俊斎(海江田信義)
薩摩藩士・有村俊斎(海江田信義)のザンネンな4つの功績とは

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『なんて先見の明がないやつだ』と思うかもしれませんが、この場合、海江田がダメというよりも、五代の見識が優れていたと見るべきでしょう。

このとき五代らはイギリス側の捕虜となり、尋問されます。

「薩摩の戦力はどの程度なのか?」

「薩摩は古来よい、武勇で知られておいもす。特に陸戦は最も得意とすうとこい。おはん方が上陸したら、苦戦すうこっでしょう」

大げさに五代がそう言うのを聞いた相手は、考えました。すでにイギリス側の損害も小さくはありません。

「ふむ……講和が互いに賢明な手段だな」

五代らは横浜まで連れて行かれ、50両と共に解放されました。

これで薩英戦争の悪化や、上陸戦が防がれたのですから、その働きは大きなものです。

 

見通し鋭すぎるがゆえに藩内で浮いてしまう

しかし、勝手にイギリスと戦った薩摩に、幕府からは厳しい目を向けてられてしまいます。

幕府のみならず、薩摩藩士からも、五代らは冷たい目で見られてしまいました。

「イギリスの捕虜になうとは、武士の風上いも置けん奴だ」というわけですね。

そこで五代らは、松本良順らの世話になり、変名での亡命生活を余儀なくされます。

帰藩が叶ったあとも、彼は冷たい目にさらされました。

維新のあと、政府からも西郷らからも距離があったのは、こうした経歴のせいなのです。

かくして苦い経験を積み重ねていた五代。

そんな彼にとって薩英戦争は、それでも、ある意味歓迎すべきものでした。

「尊皇攘夷をとなえ、同志を集め、自分たちがこん国の政治を掌握しじぁよな大言壮語を吐く奴がいうが、とんでん馬鹿者たちだ。

こや民を迷わせ、国政を妨げ、内戦を引き起こし、インドや中国のごとこん国を駄目にしてしまう考え方だ。

今度の戦争でイギリスに負けて、馬鹿者どもの目も覚めたな。

今とうべき政策は、開国、交易、富国強兵なのだ」

五代はそう確信していました。

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松下村塾、水戸天狗党、そして薩摩の精忠組も形無しといいますか。

ここまでズバッと考えるからこそ、藩内で浮いていたのかな、と思います。

しかも、五代の言うことは正しいのです。

 

念願の英国留学

文久4年(1864年)に帰藩した五代。

その翌年となる慶応元年(1865年)、薩摩藩では五代の構想第一弾が実現しました。

薩摩藩遣英使節団として、念願の渡英を果たしたのです。

五代は薩摩藩第一次英国留学生たちの案内役として、イギリス各地を視察します。

グラバーとの親交を生かして武器を購入するだけではなく、五代は産業にも興味関心を抱きました。

岩崎弥太郎(左)とグラバー/Wikipediaより引用

このとき、紡績機械を購入。

こうした行動は、まさに島津斉彬の意思を継ぐ者と言えます。

さらに彼の構想は広がり、大きな「カンパニー」を作って貿易する夢が膨れあがってゆきました。

まんま龍馬ですね。

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