佐久間盛政(鬼玄蕃)

佐久間盛政(鬼玄蕃)を描いた『佐久間盛政秀吉ヲ襲フ』作:楊斎延一/wikipediaより引用

戦国時代

鬼玄蕃と恐れられた佐久間盛政(勝家の甥)が秀吉の誘いを笑って一蹴

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佐久間盛政
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賤ヶ岳の戦い

1583年3月――。
秀吉の調略手腕に押され気味となった勝家は、ついに軍を動かし、北近江まで進出します。

信長の葬儀を執り行ったり、勝家方の武将を味方に引き込んだり。

政治力では一枚も二枚も上手の秀吉に対し、実力行使に出たカタチですね。

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勝家も内政に関しての手腕は決して悪くはなかったのですが、外交政治となればやはり一歩遅れを取ってしまいました。

鬼玄蕃こと佐久間盛政にとっても、実戦の方が性に合っていたでしょう。

しかし、戦いはいきなり膠着状態に陥ります。

賤ヶ岳を中心に両軍とも堅強な砦を築き、攻めるに攻められなかったのです。

と、そこで秀吉が大垣城に赴いており、戦場を留守にしていたことが告げられます。

佐久間盛政にその一報を届けたのは、勝家の養子でありながら秀吉方になびいていた柴田勝豊の家臣でした。

秀吉、不在――。

その情報を握った佐久間盛政は、中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案します。武勇を誇る盛政ならではの、いささか強行な作戦でした。

それだけに勝家は、当初、この作戦に反対します。

秀吉の策も警戒していたのでしょう。

しかし、佐久間盛政の強い要望により妥協せざるを得ず、「砦を落としたらすぐ戻ること」という条件つきで承諾します。

勢いに乗る盛政。
急襲作戦は見事に成功し、中川清秀を大岩山で討ち取ると、続けて高山右近の軍も撤退させ、緒戦を勝利に導きました。

そこで驚くべき一報が届けられます。

美濃から50km以上を走破した秀吉軍が、未明、佐久間盛政らに襲いかかったのです。

しかも、攻防の最中、勝家に与する前田利家らが戦線を離脱する――という足元すくわれるような展開を迎え、結局、柴田軍は総崩れとなって敗北するのでした。

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叔父である柴田の恩をなぜ忘れることができようか

佐久間盛政は再起を図って加賀国・尾山城へ落ち延びようとしました。

が、その途上、越前府中付近にあった中村の山中で郷民に捕らえられ、命運尽きたことを悟ると、自ら秀吉に対面したいので引き渡すよう告げます。

ちなみに佐久間盛政を縄で縛り上げた百姓に対して秀吉は激怒、後に処刑しております。

というのも鬼玄蕃こと盛政の武勇を買っていたんですね。

そのため秀吉は、宇治の槙島にて盛政を養生させ、程なくして再度顔を合わせると、こう語りかけました。

「我に二心なく仕えるならば一国与えよう。敵や味方というのは一時のことであって、そなたの武勇を捨てるのは忍びない」

対して佐久間盛政は笑いながら、歯牙にもかけない様子で答えます。

「もしも我に国を与えるならば、次は貴殿を生け捕りして差し上げよう。叔父である柴田の恩をなぜ忘れることができようか」

キッパリと秀吉の申し出を跳ね付け、更にこう続けました。

「一生の終わりは風流な最期で迎えたい。願わくば、大紋紅裏廣の小袖に白帷子を添え、香を薫じて与えてほしい。それが望みでござる」

そして処刑当日。
浅野長政が、佐久間盛政のことを「臆病者だ」と愚弄すると、悠然と答えるのです。

「昔、源頼朝が戦に敗れたとき、木の洞に隠れて逃げ延び、後に再起して平家を滅ぼした。その志、貴殿では知らぬよな」

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さすが盛政、天晴な最期だと、この話を聞いた人たちは感心したと言います。

辞世はこの通り。

「世の中を めぐりもはてぬ 小車は 火宅のかどを いづるなりけり」

享年30。
短いながら最後まで勇と義を重んじた生涯でした。

 

娘の嫁ぎ先が非常に気まずい

鬼玄蕃こと佐久間盛政が亡くなると、一人娘である虎姫が残されました。

盛政を高く評価していた秀吉は、この虎姫の結婚の仲立ちをします。

結婚相手は、あろうことか中川秀成。

佐久間盛政が賤ヶ岳において急襲し、討ち死にさせた中川清秀の次男でした。

秀成の兄・中川秀正(播州三木城・6万6千石)が文禄二年(1594年)、朝鮮水原城のほとりで 鷹狩りをしていたところを毒矢で射かけられて没すると、秀吉は秀成に家督を継ぐことを認めると同時に、この結婚を命じたのです。

それが、どれだけ大変なことか……。

中川家では佐久間盛政との戦いで、中川清秀を始めとして多数の犠牲者を出しました。ゆえにこの結婚は大いに不満でした。

が、秀吉の命には逆らえず、秀成は虎姫を迎えます。

ただ、政略結婚にしてはこの夫婦の仲は非常に良く、嫡男・久盛をはじめ、多くの子宝に恵まれるのです。

慶長15年(1610年)1月、実に7人目の子を妊娠した虎姫は、夫・秀成に願い事をしました。

「もし今度の子供が男子ならば、その子に父・盛政の佐久間家を継がせたいのです」

はたして生まれた子は男子でした。

ところが虎姫は、産後の肥立ちが悪く、間もなく死んでしまいます。まるで悪い冗談のような悲劇です。

秀成は、妻との約束を守りました。

彼は生まれた子を内記と名付けると、これを佐久間盛政の弟・勝之に養子に出すのです。

勝之はこの甥を養育し、元服すると『佐久間勝成』を名乗らせ、自分の娘と結婚させました。

盛政流佐久間家の復興――。

この新生佐久間家は、中川家の親族衆として存続し、明治にまで至ります。

虎姫は息子である嫡男の中川久盛にも一つ頼みごとをしておりました。

父・佐久間盛政の菩提寺建立です。

母の死後、彼もまたその約束を果たし、菩提寺を建てます。

その名は『英雄寺』。現在も大分県竹田市にて佐久間盛政の魂を供養しております。

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文:小野直輝
監修:五十嵐利休

【参考】
国史大辞典
高木元豁『尾張武人物語』(→amazon
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon

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