武田信玄

近年、武田信玄の肖像画として注目されている2枚(左が九品仏浄真寺蔵で右が高野山持明院蔵)/wikipediaより引用

戦国時代

武田信玄 史実の人物像に迫る!父を追放し三方ヶ原後に没した53年の生涯

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その後、武田騎馬隊はどうなったのか?

さて、その武田家を支えた武田軍。

精強な騎馬隊がよく知られております。

野原を縦横無尽に駆け巡り、敵をなぎ倒していく姿を思い浮かべることでしょう。

少し前まで、この騎馬隊に対する否定的な考え、つまり「馬に乗って戦うことはなかった」とする説が提唱され話題になっておりましたが、現在では「やはり戦っていた」という見方が有力視されてます。

将校クラスだけでなく、身分の低い者も馬に乗って合戦に参加し、その隊が組まれていることが史料から読み取れるのです。

※以下のツイートには在来種の木曽馬が凄まじい速度で走る動画が公開されています

ただし「武田信玄陣立書」には、

【鉄砲、弓、騎馬、槍】

といった順番で部隊の構成が記されており、騎馬だけが際立って凄まじい、と確定したものはありません。

実際は、他国の大名と同じような構成であったということでしょう。

基本的に合戦は、鉄砲と弓で遠距離攻撃を仕掛け合いながら、徐々に距離を近づけて槍隊の出番となり、戦況が動き始めたところで騎馬隊がトドメにかかる――そんな流れだと考えられております。

ただ、やっぱり武田家の騎馬隊が凄いらしい、という記述はありまして。

長篠の戦い】で武田勝頼と対峙することになった織田信長が、騎馬隊を警戒している、そんな一節が『信長公記』にも記されているのです。

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実は、鉄砲隊の隊列を崩すには、騎馬で突入させて撹乱させるのが定石。

そんな状況もあって、大量の鉄砲を用意させた織田信長が、武田の騎馬隊をかなり警戒していたのかもしれません。

長篠の戦いでは、騎馬隊を次々に突入させて無駄死にさせた、ということで勝頼の能力を否定する見方が一般的かもしれませんが、本当はやるべきことをやっていた可能性が高いのです。

むしろ長篠の戦いは、兵力を少なく見せ、山を砦のように固めていた、織田信長の作戦勝ち。

戦後、勝頼の名馬も信長に奪われております。

 

正妻・三条夫人は悪妻だった?

かつて信玄のフィクション作品と言えば、正妻の三条夫人が悪者で、側室の諏訪御料人を美人で描く傾向が見られました。

義信が謀反騒動で討たれ、勝頼が跡を継いだ。

そうしたことから、諏訪姫&勝頼を持ち上げた方がストーリーを展開させやすかったのでしょう。

しかし、実際の三条夫人が悪妻であった可能性は低いと思われます。

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まず、彼女は今川義元の斡旋によって輿入れが実現し、かつては敵対関係であった武田と今川の両家に緊張の緩和をもたらしました。

実際、今川の家督争い(花倉の乱)では、武田が義元を支持。

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信虎の長女が義元の正室にもなり、武田氏は中央貴族や京都寺院との結びつきが強くなります。

後に信玄が信長包囲網を敷くときに、三条夫人を通じて石山本願寺と連携をはかったこともよく知られます。

三条夫人の妹が本願寺顕如に嫁いでおり、それぞれの妻を通じて義兄弟の関係になっていたんですね(ちなみに三条夫人の姉は管領・細川晴元に嫁いでいる)。

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信長との争いの前には、本願寺(越中の一向宗門徒)を通じて、越後の上杉謙信を牽制する働きかけも行われております。

なにより信玄と彼女の間には、

・義信
・竜芳
・信之
黄梅院
・見性院

と5人もの子供がおります。

三条夫人が悪妻かつ不仲であったら、さすがにここまでの関係を築くことは不可能だったのではないでしょうか。

彼女は内助の功だけでなく、外交という信玄の武器にも不可欠だったのです。

 

側室と子どもたち

武田信玄には、正妻・三条夫人の他に側室がハッキリしたところで3名、他に数名いたのでは?と考えられてます。

それは以下の通り。

・諏訪御料人(諏訪姫)

・油川夫人

・禰津夫人

・勝沼氏の娘ほか数名(詳細不明)

それぞれ簡潔に説明しておきましょう。

側室で、最も印象深いのが諏訪御料人ですね。

実父の諏訪頼重と弟・竜王丸を信玄に殺されながら、武田勝頼という跡継ぎを産みました。自身は二十代の若さで亡くなっています。

勝頼の息子・信勝が当主候補で、勝頼は代行に過ぎなかったという指摘(上記の通り甲陽軍鑑に記された信玄の遺言)もありますが、いずれにせよここで滅びてしまったので致し方ない話でしょう。

油川夫人の出身・油川家は、もともと武田家とは同族の名門です。

信玄の祖父である武田信縄(のぶつな)。その弟・油川信恵(あぶらかわのぶよし)が祖となって甲府の南部に勢力を張っておりましたが、信虎との争いに敗れて同家は滅亡しました。

家柄が良いだけでなく子宝にも恵まれ、

・仁科家を継いだ五男の盛信

・葛山氏の養子に入った六男の信貞

木曽義昌に嫁いだ真里姫

・信長嫡男の織田信忠と婚約した松姫

・上杉景勝の妻菊姫

などがいます。

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禰津夫人は、信濃の高遠一族の出身です。七男・信清を産んだこと以外は知られておりませんが、この信清は武田家滅亡後、姉である菊姫のツテで上杉景勝に仕えました。

こうして見ますと、冷静沈着に政略結婚を繰り返した――なんて思うかもしれませんし、実際そうなのかもしれません。

が、だからといって愛情がなかったとも判断できないでしょう。

信玄は、黄梅院を北条氏政の嫁に送るとき、実に10,000以上の騎兵を伴わせたと言います。

この数字はさすがに盛り過ぎのため、仮にその1/10だとしても1,000を超えるのですから、娘に対して深い愛情を抱いていたことがうかがえます。調度品も相当な品揃えでした。

ただ……。駿河侵攻で黄梅院は離縁で甲府に戻され、失意のうちに急死してしまいます。

信玄は大泉寺に所領を寄進してまで、彼女の魂を弔ったと伝わります。

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【信玄の妻と側室・子どもたち】

◆男

三条・義信(廃嫡した嫡男)
三条・竜芳(海野二郎)
三条・信之(夭折)

諏訪・勝頼 - 信勝(孫)

油川・盛信(仁科五郎盛信)
油川・信貞(葛山十郎信貞)

禰津・信清(安田三郎信清)

◆女

三条・黄梅院(北条氏政室)
三条・見性院(穴山信君室)

油川・真理姫(木曽義昌室)
油川・菊姫(上杉景勝室)
油川・松姫(織田信忠と婚約)

息子の多くが他家の養子となったのは、支配力を強めるためであり、武家の間では古くから行われておりました

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