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足利家 織田家

和田惟政は苦悩の末に戦死を遂げた【織田家―足利家の中間管理職】

自社と取引先の飲み会に出席せねばならず、スケジュールアプリを見ながらため息をつく――。
そんな現代社会に生きる人々にとって、深い同情を寄せたくなるような戦国武将が存在します。

その名も和田惟政

室町15代将軍・足利義昭と次代の天下人・織田信長の間に挟まれ、両者の仲が険悪になるにつれ巻き込まれていくような、そんな切ない立場の戦国武将です。

当時、同じようなポジションには明智光秀細川藤孝などもおりましたが、彼等はその辺、淡々とこなしているようにも見える。
一方で惟政はそうではない。

この人間味あふれる和田惟政とは一体どんな人物だったのでしょうか。

 

乱世の甲賀に生まれた和田惟政

和田惟政は、近江国甲賀郡和田(滋賀県甲賀郡甲賀町)に生まれました。

「甲賀武士」五十三家のうちの二十一家に数えられる、南山六家または山南七家の一つといわれた土豪の出です。

当初の和田氏は、南近江で勢力を誇っていた六角氏に従っておりました。
甲賀出身のためフィクションでは忍者にされることもありますが、甲賀の土豪全てが忍者というわけではありません。

同じように、織田家家臣の滝川一益も忍者とされがちですよね。

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甲賀や伊賀に忍者のイメージが色濃くあるのは、彼らが戦国乱世において「動乱に巻き込まれやすかった」という地理的な事情もあります。

山城(京都)の隣・近江(滋賀)は戦乱からの一時的な退避先として都合よく、権力闘争の渦中にいた大名武将なども度々その地を訪れています。

そのような地で和田惟政が生まれたのは享禄3年(1530年)。
上杉謙信や大友宗麟と同じ年です。

彼が歴史において目立った動きを見せ始めるのは、あの事件の後でした。
足利将軍が殺されるという【永禄の変】です。

 

将軍・義輝が討死! 弟・覚慶が還俗へ

永禄8年(1565年)。
「永禄の変」が勃発しました。
13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久通に襲われ討死したのです。

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一般的に松永久秀の所業と語られがちですが、彼は不参加。つまり冤罪です。いずれにせよその悲報は京都周辺を騒然とさせました。

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足利幕府はもはやこれまでなのか?
再興できるのか?

諸勢力は判断に迷います。
それというのも、将軍を討ち取った三好勢にしても後先考えない突発的なところがあり、足利一門の根絶には至らなかったのです。

その証拠に、当時、出家していた義輝の弟・一乗院覚慶が、細川藤孝やその弟・三淵藤英らに救出されて奈良からを抜け出し、幕府奉行衆である和田惟政の元へ身を寄せてきたのです。
将軍の側近である惟政が、たまたま彼と離れていたことで、途切れかけていた糸がつながりました。

では覚慶とは誰なのか?

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他でもありません。
足利義昭です。

救出後に還俗して、いったんは義秋を名乗りますが、本項では「足利義昭」で統一させていただきます。

 

和田惟政が義昭を匿った

惟政は甲賀の自邸があるあたりで、義昭を匿わせます。

ここで思い描いて欲しいのが、後の将軍・徳川家康の「神君伊賀越え」です。
本能寺の変が起きた後、明智光秀の追っ手から逃れるため、堺から伊賀の山中を抜けて岡崎城まで逃げ切った逃避行。

甲賀と伊賀は地理的に近く、京都からこのあたりまで脱出すれば、一時的にはほっと一息つける。
そういう位置関係だというのは前述の通りです。

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家康は伊賀を超えてから再出発を目指すわけですが、還俗した覚慶改め義昭には、困難が待ち受けておりました。

義昭は周辺大名に協力を求めますが、どうにもうまくいかないのです。

義昭「幕府再興するぞ、誰か助けてくれ!」

そう問いかけたところ……。

六角義賢「和田惟政さんが頼んできましたけど、どうしましょうかねえ(煮えきらない態度)」

織田信長「美濃が大変なことになっています。それどころではありません!」

武田義統若狭武田氏はもうそんな余力はありません」

流浪する義昭に従い、若狭から越前まで流浪の日々を送ります。
この群雄割拠において、頭ひとつ抜け出したのが織田信長でした。

永禄11年(1568年)、信長は周辺大名との争いに一段落つけて、上洛準備が整ったのです。
義昭の横で、ほっと惟政も一息つけるかと思える状況でした。

夏には細川藤孝とともに岐阜へ赴き、信長と面会を果たします。このあと義昭も岐阜まで向かうのでした。

 

甲賀武士をとりまとめる

和田惟政は外交官としての役割を果たし、甲賀の土豪たちを取りまとめて信長への忠誠を誓わせております。

惟政のこの動きは、後世の甲賀イメージにも関係している部分がありまして。

例えばフィクションでは、伊賀と甲賀忍者が幾度となく殺し合いをしております。
現在に至っても、忍術対決手裏剣投げ勝負をしておりますが、歴史的な事情もあるのです。

◆甲賀(滋賀県甲賀市)
・六角氏から織田氏に忠誠を誓う。そのあとも豊臣、徳川家康と情勢に応じたフレキシブル対応

◆伊賀(三重県伊賀市)
・織田信長と対立(「天正伊賀の乱」)するも、徳川家康の「神君伊賀越え」で大ブレイクだ!

甲賀よりも伊賀が忍者アピールに前向きかつ積極的であるのは、やはり家康を救ったという江戸幕府のお墨付きが大きいのでしょう。

そこをクローズアップして、ともかく忍者フィクションでは殺し合いをしまくったように描写されたわけです。

近場の同業者ですので互いが協力したこともありますし、ケースバイケースというのが実態でした。

◆「忍者の日」に歴史的和解…「伊賀VS甲賀」はアニメや小説が創りあげた虚構!?

※伊賀と甲賀、結婚できました

 

フロイス絶賛「和田惟政こそ摂津の総督」

和田惟政は岐阜に赴いたころから、二重の肩書を持ったようなものでした。

・足利幕府
・織田家臣

これは明智光秀や細川藤孝もそうであり、六角氏攻略では勝手知るものとして先陣に立つ――そんな惟政が確認できます。

時代は、信長の勢いに従いつつありました。
三好義継、松永久秀らも信長に降り、畿内の勢力図は塗り替えられてゆくのです。

そんな信長の協力のもと、将軍に返り咲きを果たした義昭。
和田惟政も「摂津三守護」の一人とされ、芥川城や高槻城城主を歴任することとなります。

フロイスの『耶蘇通信』で、
「惟政こそが都と摂津の総督である」
と記されるだけでなく、フロイスの『日本史』でも好意的な記述が目立ちました。

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しかし、ここで注意しなければならないことがあります。

こうした宣教師たちの記述には、自分たちに好意的な人間に対するバイアスや、欧州の本国へ伝える誇張が含まれるものです。

実際、惟政はカトリックに好意的でした。
高山飛騨守友照(高山右近重友の父)と親友でもある和田惟政は、高山からキリスト教のことを聞いて好印象を抱いておりました。

友人の影響というだけでもなく、惟政自身も宣教師の言葉に説得力を感じていたと思われます。

なんせフロイスと信長の仲をセッティングしたのも、惟政と言われているのです。

当時は、松永久秀も含め、宗教に寛容な人物が多いものでした。
惟政はフロイスが感銘を受けた記述が多いのですから、きっとその中でも上位の理解度であったのでしょう。

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信長から謹慎を命じられていた!?

知性に溢れ、武勇も備え、外交官センスもある。
こう見ていくと、和田惟政は素晴らしい人生を歩んでいた人のようにも見えてきます。

しかし、ことはそう単純ではありません。
人間には立場があります。
中間管理職めいたドツボに、惟政は直面。

永禄12年(1569年)十月から、惟政の名前が史料からふっつりと消えます。

信長が惟政に対して腹を立て、蟄居(謹慎)を命じたのです。
そして翌年3月まで、彼の名は消え続けました。

原因は?
後世、様々なことが推察されており、フロイスなどはこのように語っております。

「あんな素晴らしい惟政殿を、邪悪な仏僧・日乗が讒言したんですよ!」

仏僧は悪いと言いたいわけですね。
これはどうにもフロイスのバイアスが入っております。

和田惟政が蟄居を命じられた背景――そこには義昭と信長の対立がありました。

 

織田家―幕府で板挟みの苦悩

将軍になってからの足利義昭はどうにも職務怠慢なフシがあったように思われます。

信長の事績を著した『信長公記』などに見られるのが、義昭の不誠実な対応を咎める信長の言葉です。

「十七箇条意見書」や「殿中御掟」というもので、平たくいえば「将軍なんだからシッカリしてくださいよ」と注意するものでした。

信長から義昭へ「十七箇条意見書」や「殿中御掟」には何が書かれていた?

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将軍が家臣クラスの人間に叱られる――そんな構図に我慢がならなかったのか。
足利義昭は次第に信長を厭うようになり、しまいには信長の命を狙うべく、【信長包囲網】に助力するほどになるのです。

和田惟政は、こうして敵対していく両者に挟まれ、中間管理職のジレンマよろしく、対立関係に忙殺されていったのでしょう。
この辺り、明智光秀や細川藤孝あたりは非常にクールに対応し、三淵藤英も惟政同様、苦悩を抱いている印象があります。

蟄居からの復帰後は、朝倉・浅井との戦いに従軍し戦功をあげ、六角氏相手の和睦交渉にもその活躍が見られます。しかし……。

元亀2年(1571年)、三好長逸(三好三人衆の一人)と同盟した池田知正との戦いにおいて討死を遂げました。
没年は未詳ながら、42という記述があります。

和田惟政の死後、遺児の和田惟長は、高山父子暗殺計画を練って発覚、追放の上、没しました。
残念ながら和田氏はこれにて終焉を迎えるのです。

和田惟政の生涯――それは足利義昭と織田信長の間で翻弄される、乱世の生き方そのものでした。

華々しい戦国武将も、現在の会社員と大差ない苦しみがあるのですね。

もしも大河ドラマ『麒麟がくる』に出てきた惟政が、冴えない顔色だとすれば?
板挟みに苦悩しているんだな……と想像してあげましょう。

文・小檜山青

【参考文献】
『織田信長家臣人名辞典』
『戦国人名辞典』
国史大辞典

 



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