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【和田惟政】
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信長から謹慎を命じられていた!?
知性に溢れ、武勇も備え、外交官センスもある。
こう見ていくと、和田惟政は素晴らしい人生を歩んでいた人のようにも見えてきます。
しかし、ことはそう単純ではありません。
人間には立場があります。
中間管理職めいたドツボに、惟政は直面。
永禄12年(1569年)十月から、惟政の名前が史料からふっつりと消えます。
信長が惟政に対して腹を立て、蟄居(謹慎)を命じたのです。
そして翌年3月まで、彼の名は消え続けました。
原因は?
後世、様々なことが推察されており、フロイスなどはこのように語っております。
「あんな素晴らしい惟政殿を、邪悪な仏僧・日乗が讒言したんですよ!」
仏僧は悪いと言いたいわけですね。
これはどうにもフロイスのバイアスが入っております。
和田惟政が蟄居を命じられた背景――そこには義昭と信長の対立がありました。
織田家―幕府で板挟みの苦悩
将軍になってからの足利義昭はどうにも職務怠慢なフシがあったように思われます。
信長の事績を著した『信長公記』などに見られるのが、義昭の不誠実な対応を咎める信長の言葉です。
「十七箇条意見書」や「殿中御掟」というもので、平たくいえば「将軍なんだからシッカリしてくださいよ」と注意するものでした。
信長が義昭を叱る! 殿中御掟や十七箇条意見書には何が書かれてる?
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将軍が家臣クラスの人間に叱られる――そんな構図に我慢がならなかったのか。
足利義昭は次第に信長を厭うようになり、しまいには信長の命を狙うべく、【信長包囲網】に助力するほどになるのです。
和田惟政は、こうして敵対していく両者に挟まれ、中間管理職のジレンマよろしく、対立関係に忙殺されていったのでしょう。
この辺り、明智光秀や細川藤孝あたりは非常にクールに対応し、三淵藤英も惟政同様、苦悩を抱いている印象があります。
蟄居から復帰後の惟政は、朝倉・浅井との戦いに従軍し戦功をあげ、六角氏相手の和睦交渉にもその活躍が見られます。
しかし元亀2年(1571年)、三好長逸(三好三人衆の一人)と同盟した池田知正との戦いにおいて討死を遂げたとされます。
没年は未詳ながら、享年42という記述があります。
和田惟政の死後、遺児の和田惟長は、高山父子暗殺計画を練って発覚、追放の上、没しました。
残念ながら和田氏はこれにて終焉を迎えるのです。
★
和田惟政の生涯――。
それは足利義昭と織田信長の間で翻弄される、乱世の生き方そのものでした。
華々しい戦国武将も、現在の会社員と大差ない苦しみがあるのですね。
大河ドラマ『麒麟がくる』には登場しませんでしたが、光秀や藤孝以外にも、足利家と織田家の狭間で苦悩する戦国武将がいた。
それが和田惟政だったんだと思いを馳せるのもよろしいかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』(→amazon)
『国史大辞典』
他