足利家 信長公記

信長と義昭 上洛戦の一部始終! 岐阜から京都までどんな敵と戦っていた?

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織田信長と足利義昭の上洛
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9月12日 箕作城攻略

この日の午後四時から、以下の面々に箕作城を攻めさせました。

佐久間信盛(信長の筆頭家老)

・木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉

丹羽長秀(「米五郎左」こと信長の腹心)

・浅井正澄

正澄だけ素性がよくわかりません。

後に【姉川の戦い】などでまた出てきますので、浅井軍からの参加だと思われます。

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箕作城はこの日夜に陥落し、信長もここへ来て一晩休息しました。

この日の記述には、戦の経過のほかに、ちょっとした逸話が添えられています。

箕作城攻めは、信長が美濃を手中に収めてから最初の本格的な戦でした。

そのため、美濃の将兵、特に”美濃三人衆”と呼ばれていた

稲葉一鉄(「一徹者」の由来になったとされる人物)

安藤守就竹中半兵衛の舅)

氏家卜全(美濃の1/3を治めていた実力者)

などは、次のように心配していたそうです。

「信長公への忠誠を試すために、この戦では先鋒として使われるであろう」

こういうやり方はよくある話ですし、わざと激戦になりそうなところへ配置されることも少なくありません。

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ところが、信長は違いました。

この日は美濃衆ではなく、自分の御馬廻衆を使ったのです。

心配していた人々は首を傾げたようで、信長の真意はわかりません。

想像するに、美濃衆をイヤイヤ働かせて上洛中の離反を防いだのでしょう。

ちょっとでも信長方が隙を見せれば、六角方が勢いづいてしまいますし、徳川軍や浅井軍への示しがつきません。

下手にプレッシャーを与えて足並みを乱すより、統制を意図したのでしょうね。

 

9月13日~9月27日 本拠地・観音寺城陥落

9月13日

いよいよ六角氏の本拠・観音寺山に攻め上りました。

が、既に城主の六角親子三人は逃げた後でした。

残党も降参したため、信長は人質を取って監視をさせるに留め、先へ進みます。

近江の主である六角氏が信長に事実上敗れたため、他の近江の城主たちも次々に降伏しました。

9月14日

近江国内を攻略し終わったため、信長は義昭の迎えとして、不破光治を派遣しました。

義昭は21日に柏原の上菩提院(米原市)、22日に桑実寺(蒲生郡)に到着します。

9月24日

この日は、信長が守山へ進軍した、とだけ記述。

箕作城攻めでかなり損耗していたようなので、この間に兵馬の休息もさせていたと思われます。

9月25日

「琵琶湖を船で渡ろうとしたが、舟の都合がつかず駐留した」とあります。

なんだか間の抜けた話にも思えますが、なんせ6万という大所帯なので、片っ端から舟を集めなければならなかったのでしょう。

9月26日

琵琶湖を渡り、三井寺極楽院(園城寺/大津市)に布陣しました。

信長の本隊以外は、付近の馬場・松本に陣を張ったようです。

9月27日

義昭が琵琶湖を渡り、三井寺極楽院に到着したことのみが書かれています。

義昭は信長に同行していたわけではなく、常に後を追いかけるような形で上洛していたんですね。

まぁ、そっちの方が安全ですし。

 

9月28日 京都入りして三好攻め

信長が東福寺(京都市東山区)に陣を移し、義昭も京都の清水寺へ入りました。

この時点で上洛そのものは終わったとも取れますが、三好方の驚異を払わない限り、まだ安心はできません。

そこで、三好三人衆の一人・石成友通がいた青龍寺(勝竜寺)城を攻めることにし、以下の面々に先鋒を命じました。

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坂井政尚は元々美濃斎藤氏に仕えていた人で、信長が美濃を攻略した後、織田氏へ仕えるようになっていました。

彼の名前がはっきり出てくるのはここが初めてであること、箕作山城攻めで美濃衆が使われなかったことを併せて考えると、政尚にとってはやりがいとプレッシャーのある戦だったと思われます。

他の三人も政尚の立場を理解してか、うまく協力して攻撃。

敵の首を50以上も取る大勝を収めました。

首は信長の下へ送られ、実検されたようです。

特記がないので、大将首といえるものはなかったのかもしれません。

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