取引先だけでなく自社の飲み会にも出席せねばならず、スケジュールアプリを見ながらため息をつく――。
そんな現代社会に生きる人々にとって、深い同情を寄せたくなるような戦国武将が存在します。
1571年9月17日(元亀2年8月28日)に亡くなられた和田惟政です。
室町15代将軍・足利義昭と次代の天下人・織田信長の間に挟まれ、両者の仲が険悪になるにつれ巻き込まれていくような、そんな切ない立場の戦国武将です。
当時、同じようなポジションには明智光秀や細川藤孝などもおりましたが、彼等はその辺、淡々とこなしているようにも見える。
一方で惟政はそうではない。
この人間味あふれる和田惟政とは一体どんな人物だったのでしょうか。
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乱世の甲賀に生まれた和田惟政
和田惟政は、近江国甲賀郡和田(滋賀県甲賀郡甲賀町)に生まれました。
「甲賀武士」五十三家のうちの二十一家に数えられる、南山六家または山南七家の一つといわれた土豪の出です。
当初の和田氏は、南近江で勢力を誇っていた六角氏に従っておりました。
甲賀出身のためフィクションでは忍者にされることもありますが、甲賀の土豪全てが忍者というわけではありません。
同じように、織田家家臣の滝川一益も忍者とされがちですよね。
※以下は滝川一益の関連記事となります
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甲賀や伊賀に忍者のイメージが色濃くあるのは、彼らが戦国乱世において「動乱に巻き込まれやすかった」という地理的な事情もあります。
山城(京都)の隣・近江(滋賀)は戦乱からの一時的な退避先として都合よく、権力闘争の渦中にいた大名武将なども度々その地を訪れています。
そのような地で和田惟政が生まれたのは享禄3年(1530年)。
彼が歴史において目立った動きを見せ始めるのは、あの事件の後でした。
足利将軍が殺されるという【永禄の変】です。
将軍・義輝が討死! 弟・覚慶が還俗へ
永禄8年(1565年)。
【永禄の変】が勃発しました。
13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久通に襲われ討死したのです。
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一般的に松永久秀の所業と語られがちですが、彼は不参加。つまり冤罪です。
いずれにせよその悲報は京都周辺を騒然とさせました。
信長を2度も裏切った松永久秀は梟雄というより智将である~爆死もしていない!
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足利幕府はもはやこれまでなのか?
再興できるのか?
諸勢力は判断に迷います。
それというのも、将軍を討ち取った三好勢にしても後先考えない突発的なところがあり、足利一門の根絶には至らなかったのです。
その証拠に、当時、出家していた義輝の弟・一乗院覚慶が、細川藤孝やその弟・三淵藤英らに救出されて奈良からを抜け出し、幕府奉行衆である和田惟政の元へ身を寄せてきたのです。
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将軍の側近である惟政が、たまたま彼と離れていたことで、途切れかけていた糸がつながりました。
では覚慶とは誰なのか?
他でもありません。
足利義昭です。
救出後に還俗して、いったんは義秋を名乗りますが、本項では「足利義昭」で統一させていただきます。
和田惟政が義昭を匿った
惟政は甲賀の自邸があるあたりで、義昭を匿わせます。
ここで思い描いて欲しいのが、後の将軍・徳川家康の【神君伊賀越え】です。
本能寺の変が起きた後、明智光秀の追っ手から逃れるため、伊賀の山中を抜けて岡崎城まで逃げ切った逃避行。
甲賀と伊賀は地理的に近く、京都からこのあたりまで脱出すれば、一時的にはほっと一息つける。
そういう位置関係だというのは前述の通りです。
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家康は伊賀を超えてから再出発を目指すわけですが、還俗した覚慶改め義昭には、困難が待ち受けておりました。
義昭は周辺大名に協力を求めますが、どうにもうまくいかないのです。
義昭「幕府を再興するぞ、誰か助けてくれ!」
そう問いかけたところ……。
六角義賢「和田惟政さんが頼んできましたけど、どうしましょうかねえ(煮えきらない態度)」
織田信長「美濃が大変なことになっています。それどころではありません!」
武田義統「若狭武田氏はもうそんな余力はありません」
流浪する義昭に従い、若狭から越前まで流浪の日々を送ります。
この群雄割拠において、頭ひとつ抜け出したのが織田信長でした。
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永禄11年(1568年)、信長は周辺大名との争いに一段落つけて、上洛準備が整ったのです。
義昭の横で、ほっと惟政も一息つけるかと思える状況でした。
夏には細川藤孝とともに岐阜へ赴き、信長と面会を果たします。このあと義昭も岐阜まで向かうのでした。
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