天正遣欧少年使節/wikipediaより引用

宣教師・キリシタン

ヨーロッパを初めて見た天正遣欧少年使節~気になるその後の人生は?

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天正十八年(1590年)6月20日は、天正遣欧少年使節が帰国した日です。

戦国時代において織田信長豊臣秀吉明智光秀らの存在感に比べるといささか地味ですが、この時代においてはなかなかスゴイ話だったりします。

教科書だと「来た、見た、勝った」ばりに簡単に書かれていますが、今回はもう少し細かいところも見ていきましょう。

天正遣欧少年使節」は「使節」と略させていただきますね。

 

1582年 本能寺直前に日本を発ち……

この使節が日本を発ったのは、天正十年(1582年)のことでした。

ちょうど本能寺の変があった年ですが、出立は1月ですから、彼らはそのことは知りません。
帰国したとき、使節たちは天下人が信長ではなく秀吉だったことに仰天したでしょうね。

目的は、ずばりキリスト教のためでした。

まだ先入観が少なく、価値観も出来上がっていない少年たちにキリスト教世界を見せて、「キリスト教と西洋文明はスバラシイ!!」という認識を植え付け、日本での布教を進めようとしたのです。

布教には費用がかさむため、ローマ教皇やイエズス会の地元であるスペイン、そしてご近所かつカトリック国のスペインに「お金ください(´・ω・`)」(超訳)とお願いするのも目的の一つでした。

そもそもこの使節のメンバーは皆、キリシタン大名の名代です。

特に、大友宗麟の縁者である伊東マンショ、大村純忠・有馬晴信の二人と血縁がある千々石ミゲルが選ばれていることから、キリシタン大名たちやイエズス会がこの使節を重要視していたことがわかるでしょう。

大友宗麟/wikipediaより引用

 

南シナ海~アフリカ大陸を回り、2年後にリスボン到着

メンバーは、日本人少年の正使・副使が2人ずつ。
それから修道士2人、神父3人。
技術習得のための留学生2人が随行していました。

当初はアレッサンドロ・ヴァリニャーノがローマまで随行する予定だったそうなのですが、インドのゴアで用事ができたため、別の神父に交代しています。

留学生はもちろん日本人ですが、「ジョルジェ・ロヨラ」という日本人修道士もいました。正使・副使の少年たちもそうですが、この時点までに布教がある程度進んでいたことがわかりますね。

そんなこんなで、彼らは長崎を出港し、はるか西の果てへと旅立ちます。

マカオで風待ちをし、ゴアを経て、ポルトガルの首都・リスボンに着いたのは、1584年(天正十二年)8月のことです。

往路だけで2年半というのは実に長い旅ですが、南シナ海からインド洋を抜けて、アフリカ大陸をぐるっと回ればこのくらいにはなるのでしょうね。当時の船ですし。

 

ローマではグレゴリウス13世に謁見 市民権を貰う

ヨーロッパについてからは、ポルトガルやスペインの首都でお偉いさんと謁見し、地中海経由でイタリアへ向かいました。

斜塔で有名なピサの町(当時はトスカーナ大公国)では、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見。
大公妃主催の舞踏会にも参加したそうです。

彼らが踊ったかどうかはわかりませんが、十代半ばの少年たちには何もかも新鮮に映ったでしょうね。

トスカーナ大公国ではキリスト教の行事にも参加したり、首都・フィレンツェに数日滞在したりと、かなりの待遇を受けています。

その後、ローマへ。
ときの教皇はグレゴリウス13世といい、現在使われている「グレゴリオ暦」を採用した人です。

グレゴリウス13世は使節たちにローマ市民権を与えるなどしましたが、彼らの滞在中に亡くなってしまいました。
そのおかげ(?)で、使節たちは新しく教皇になったシクストゥス5世の戴冠式にも臨席することができました。

グレゴリウス13世に謁見する伊東マンショ/wikipediaより引用

戴冠式に出席した後は、ヴェネツィア・ヴェローナ・ミラノなど、今日でも有名なイタリアの諸都市国家を巡ったようです。

特にイタリアの場合、歴史の長さはキリスト教を信仰してきた長さに比例しますからね。たびたび教皇に反発してきたヴェネツィアにも、数々の大聖堂がありますし。

カトリック国を数多く巡り歩いた後、使節たちはリスボンに戻り、再び船上の人となりました。

西洋文明のスバラシサを伝えるため・布教のためを兼ねて、活版印刷機や西洋の楽器(具体的に何かは不明)、海図などをおみやげに持ち帰ります。

なお、帰る途中でゴアに立ち寄り、ヴァリニャーノに再会しています。
積もる話もあったでしょうね。ゴアでは使節の一人が演説をしていますので、ヴァリニャーノは「計画通り」とほくそ笑んだかもしれません。

 

帰国したらキリシタンには逆風が吹いていた

かくして往復8年もの長旅を乗り越えた少年たち。
持ち帰ったものに対する実りは、とてもその苦労やリスクに見合うとはいえないものでした。

帰国時には大友宗麟は亡くなっていましたし、秀吉によってバテレン追放令が出され、世間的にキリスト教が歓迎されなくなっていたからです。

もし信長が存命であれば、もう少し共存させてくれたかもしれませんが……。

帰国の翌年、豊臣秀吉の前で西洋音楽を演奏したことがあるそうなので、文化だけは歓迎された時期もあったようです。
物珍しさで、というのもありえそうですけれども。

4人の使節たちは、秀吉から「ワシに仕えないか」と誘われたものの、既に禁教の流れが生まれてきたこともあってか、主席正使で最年長の伊東マンショは、信仰を保って司祭に任じられるまでになりました。

とはいえ過激なタイプではなかったらしく、長崎のコレジオ(キリスト教の聖職者になるための学校)の先生として、静かに暮らし、1612年、病気で亡くなりました。

副使だった中浦ジュリアンと原マルティノは、伊東よりも世渡りがうまくはなかったようです。

この二人も司祭になったところまでは伊藤と同じですが、中浦は江戸時代になって弾圧が激しくなってからも九州各地で教えを説いていました。
しかし幕府によって捕らえられ、穴吊るしの刑という過酷な処刑をされています。

原は伊東と中浦の中間くらいの感じですね。
語学や交渉の才能があったことから、布教の他に洋書の翻訳・出版などにも携わっていたとか。

江戸幕府がキリシタン追放令を出すと、大人しく従ってマカオに向かい、日本語の本を出版したりして生計を立てていたといいます。
まさに「芸は身を助け」たんですね。
そのままマカオで亡くなり、恩師ヴァリニャーノと同じ場所に葬られました。

 

奴隷の姿を見て疑問をいだいた千々石ミゲルは……

4人の中で唯一キリスト教を捨てたのが、もう一人の正使だった千々石ちぢわミゲルです。

彼はヨーロッパ訪問時に現地でこき使われる奴隷を見て、キリスト教への疑問を抱いたといわれています。
その違和感が帰国後も消えず、やがてキリスト教から離れる道を選びました。

正式にイエズス会から退会した後、江戸時代になってから親戚の大村喜前(よしあき)に一藩士として仕えています。

なかなか観察眼のある人物だったようで、喜前に対して「キリスト教は異国を侵略するために使われているから、離れたほうがいい」と進言したそうです。\大正解/

が、棄教したことで熱心なキリシタンからは裏切り者とみなされ、仏教徒からはうさんくさい目で見られ、徐々に難しい立場に追い込まれてしまいました。

そのため、晩年についてはハッキリしていません。
お墓が大村藩の領内にあるので、喜前の元を離れはしたものの、領内で隠棲したと考えられています。

信仰を守るかどうかは人それぞれですし、どれが正解ともいえません。
が、「同年代の少年たちがほぼ同時に同じものを見て、その後4人とも全く違う道をたどった」というのは、実に興味深い点ですね。

しかもキリスト教という非常に影響力の強いものを見て……ですし。

時勢や法令の影響もあるとはいえ、宣教師たちの狙いがほぼ外れたというのも面白いものです。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
天正遣欧少年使節/wikipedia
伊東マンショ/wikipedia
千々石ミゲル/wikipedia
中浦ジュリアン/wikipedia
原マルティノ/wikipedia

 



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