そう問われたら、多くの方が【関ヶ原の戦い】や【第四次川中島の戦い】あるいは【三方ヶ原の戦い】あたりを挙げるだろうか。
では最も過酷な戦は?
それは何も「大軍vs大軍」による命の奪い合いだけとは限らない――。
いささか古くなるが2014年の大河ドラマは『軍師官兵衛』であった。
ご存知、豊臣秀吉の片腕・黒田官兵衛の立身出世を描いたもので、同ドラマではその途中、完全に抹殺されたエピソードがある。
【鳥取城の渇え殺し】である。
城に籠もった数千人もの城兵や農民たちが飢えに苦しみ、餓死者も多数出たという日本史上まれに見る残酷な戦い。
おそらくやNHKの放送には耐え切れないと判断されたのであろう。
はたして秀吉と官兵衛が敢行した過酷な「渇え殺し」とは?
鳥取城のツネイエ
◆そもそも鳥取城はなぜ秀吉に囲まれたのか?
それは1581年、織田軍(秀吉)の西進に対して鳥取城主の山名豊国が降伏しようとしたところ、家臣の森下道誉・中村春続に追放されてしまったからです。
この両者は毛利を頼り、その結果、吉川元春の命で派遣されてきたのが吉川経家だったのです。吉川晃司じゃござーせん。
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吉川経家さんはすでに悟っていたのでしょう。
城へ出向くときには首桶も持参していたとされ、ここから経家も含めた鳥取の悲劇が始まるのです。
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戦略
◆鳥取城を攻める前、秀吉と官兵衛は隣国の商人を使い、米を買い漁ったという話があります。それが事実であれば、買取相場は不明ですが、かなりの高値だったのでしょう。
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城兵たちはモノの見事に策略に引っかかり、城内の米を売却。
秀吉軍に囲まれたとき、すでに備蓄米は平時の3ヶ月分しかなかく、実際には戦時だったため、1ヶ月分ほどしか残ってなかったと言います。なぜなら周辺の農民たちも逃げ込んできたからです。
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官兵衛と秀吉に米を高値で買ってもらい、それが何倍もの仕打ちになって帰ってきたんすな。経家さんが悲惨すぎる……。
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