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【伊達政宗】
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奥州探題vs羽州探題 仕切るのは俺だ!
父の死後、しばらくの間、政宗は積極的な行動を起こしませんでした。
そして天正15年(1586年)冬、政宗は大崎家の内紛に武力介入します。内紛への武力介入は伊達家の得意とするところであり、奥州探題としての意識的な行動です。
ところがこの大崎合戦がなかなか厄介な経過をたどります。
伊達家の武力介入は反撃に遭い失敗。
さらには政宗にとって母方の伯父にあたり、羽州探題である最上義光が、大崎家の支援に介入してきたのです。大崎家当主の義隆は義光正室の兄であり、彼にとっては義兄でした。
前述の通り、両者は最初から険悪な仲だったわけではなく、輝宗の代では、上方の軍勢が奥羽に侵攻した場合、最上氏と伊達は連携する手はずになっていました。
政宗の軍事行動の際には、最上家から援軍が加わることもあり、後年の長谷堂合戦では伊達家から最上家に援軍が出されています。
両者はライバルとみなされることもありますが、武田信玄と上杉謙信のような、本気で火花を散らした関係とは異なるのです。
かといって常に仲が良かったわけではないという、つかずはなれずの関係と申しましょうか。
マンガやドラマでは、義光と義姫が政宗の廃嫡を企み、小次郎擁立による伊達家支配を狙っていた――なんて設定もたびたび登場しますが、これも創作です。
二人の行動パターンを見ていると、実のところよく似ておりまして。
「奥羽の秩序を仕切るのは、探題の役目である」と共に考えていたことが、対立の根本にあるのです。
例えば書状などにおいては両者とも「国中の儀」や「侍道の筋目」「骨肉」という言葉を使いました。
さらに探題職として助力を頼まれれば援軍を送り、逃げ込んで来た者がいれば匿い、紛争を仲裁するのも自分たちの責務であると意識していたのです。
喧嘩をしている者がいれば割り込んで「まあまあ、このへんでやめておけ」と仲裁するのが役目であって、喧嘩相手を殴り倒すこととは違うわけです。
以下の最上義光の記事でも触れましたが、人口が少なく、寒冷な地域であった東北には「相手を完膚無きまで倒すことはしない」という東北のやり方があり、彼らも土地の特性にあわせて最良の方法を探っていたわけです。
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ある意味、伊達と最上のこうしたやり方は「惣無事」の原型とも言えます。
伊達家を支えた片倉喜多と景綱 2人は最上寄り
かくして最上も絡んだ【大崎合戦】で足踏みをしている政宗の苦境が伝わると、周辺の勢力が動き出します。
相馬、蘆名、佐竹ら連合軍が軍事行動を起こし、天正16年(1587)6月、郡山城を包囲(郡山合戦)。政宗自ら出陣し粘り強く戦い抜き、翌月にはなんとか和議に持ち込みます。
更に、この同時期、伊達・最上領の国境に最上勢が進軍します。
いよいよ一触即発!となったその瞬間、両軍の間に現れたのが政宗の母であり最上義光の妹であった義姫です。
彼女の登場によって両者は和議を成立させたのでした。
この義姫の行動は「肝っ玉母ちゃんの勝手な行動」とネタにされたり、「平和を愛する女神のような義姫の献身」と美化されたりしがちですが、決して突発的な行動ではありません。
80日間の長期滞在ですから、輿で乗り込んで座りこむだけではなく、大名夫人が寝起きできるようちゃんと即席の小屋が作られています。
周囲には片倉景綱の姉である片倉喜多はじめ侍女がついていて、景綱の許可も得ていました。
ここで片倉喜多&景綱の姉弟について補足説明しておきましょう。

片倉景綱/wikipediaより引用
喜多は、政宗の乳母とされていますが、生涯独身で子がなかったので、乳を与える役目は担っていません。
喜多には義姫や政宗正室・愛姫の侍女をしていた時期もあります。
養育係というだけにはとどまらず、秘書的な役目を果たすキャリアウーマンといったところでしょうか。
彼女の才知をほめたたえた豊臣秀吉が、清少納言に由来する少納言の名を与えたという逸話もありますが、秀吉に出会う前から少納言と呼ばれていますので、創作でしょう。
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一方、景綱は、小十郎の名がよく知られています。この名の由来は母方の叔父・飯田小十郎が武勇に優れていたことにあやかっています。
そして飯田小十郎は最上家家臣です。つまり彼の母親は最上家臣の娘、ということになります。
また、景綱のおばが最上家の氏家氏に嫁いだとする家系図も。義光の父・最上義守が重病の際、伊達家から景綱らを枕頭に呼び寄せて「私の死後も伊達と最上は協力していくように」と言付けたという話も残っています。
つまり景綱は、かなり最上家寄りな人物なんですね。
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景綱は政宗の右腕、軍師としてフィクションで描かれることが多く、傅役とされることもあります。
が、当時の記録には残っていません。
9歳で政宗の御小姓となって以来、そばにいたことは確かです。ただ、天正14年(1585)には大森城主となり、政宗の側にピッタリという状態ではなくなっています。
そもそも景綱の業績を見ていくと、参謀というよりも外交担当的な役目が多い。
政宗と小十郎のコンビは有名で人気もあり、常にセットであるかのようなイメージがありますが、あくまでフィクションとしての描写と思っていた方がよいかもしれません。
閑話休題。
話を戻しますと、この「義姫和睦作戦」は景綱の影がチラチラと見え隠れします。
外交担当として最上家と関わってきた景綱からすれば、まさに義姫こそ最高のカードだったのでしょう。
結果的に伊達と最上は一滴の血も流れずに解決したのですから、これこそ景綱の面目躍如というところではないでしょうか。
もちろん義姫本人の交渉力もあります。政宗も義光も当時は余裕がなくて、本音を言えば矛を収めたいのにきっかけがなくて困っていた、という事情もありますが。
若くして得た巨大な力を持て余し、当人も当惑?
なんとか窮地を脱した政宗は、正室・愛姫の実家である田村家に目を向けます。相馬氏と接触していた田村家重臣を追放し、伊達家の支配下に置く体制を強化したのです。
こう政宗の戦歴を見ていくと、結構スッキリしないと思いませんか?
ピンチのところで切り抜ける手段は、なんだかんだで「和睦」が多いんですね。
これまた前述のように、相手を滅ぼすところまで戦い抜かないのは東北大名の特徴です。
政宗は撫で切りや強硬な態度でぬるま湯につかった東北大名を蹂躙した、と言われていますがそうでもありません。他の伊達家当主と同じく、相手が伊達家に従属すればそれでよいのです。
この行動パターンは「探題としての行動・思考」であると理解するとわかりやすくなると思います。
東北にショック療法を施したとされている【小手森城の撫で切り(天正13年・1585年)】にしても、あやしい部分があります。
政宗が数百人を切り捨てたとするこの一件、そもそも小手森城にはそれだけの人数は収容できません。
撫で斬りした人数報告でも政宗本人が三種類の数字を書き残していて、それぞれ二百、五百、八百と数字がバラバラ。当時は誰でもそんなものですが、特に政宗は話を盛る傾向があります。
政宗と義光が敵対した相手から煙たがられたのは、政宗が残酷で厳しいからとか、義光が狡猾で権謀術数に長けているからとか語られがちですが、実情は異なると思います。
双方ともに自らが「探題だ!」とばかりに介入し、しかもそれを足がかりに権力を抜け目なく拡大したゆえの警戒ではないでしょうか。
しかも二人には、野心だけでそういう振る舞いをしていた、と言い切れない部分もある。
「俺はこの奥羽を本気でよくしたい、そう思っている。そのためには、このグレートな俺が仕切るのが一番いいよな! だからみんな従ってくれ!」
そう考えていたフシがあるのです。
むろん、それが善意からの行動だとしても、周囲にとっては押しつけでしかありません。
喩えて言うなら、飲み会の場で全員分の唐揚げにレモンをかけるようなもの。「皆に美味しく食べて欲しいから」と言われたって、押しつけがましい善意は、迷惑なものでしょう……って、唐揚げ喩えはちょっとわかりづらいですかね。
例えばこんなシーンを想像されるといかがでしょう?
最近のアメコミ映画では、超人的な力を持つスーパーヒーローたちが何かと悩んでいます。
『俺は市民を守りたかったはずなのに、どうしてこんなことに?』
あまりに強烈なパワーで高層ビルを倒壊させてしまったり、ヒーロー同士で意見が対立してしまったり。力というのはコントロールできないと、善意で運用したところで時に危険が伴う。
政宗にも、そういうところがあるんじゃないかな、と個人的には思うわけです。
晩年、政宗が自ら「俺も天下を狙っていた」なんて話を盛っていることもあり、色々と判断の難しい要素はあります。
ただ、彼の行動を全て計算高い野心に基づく「大暴れ」だとか、「天下への野心」としてしまうのも、何か違う気がするのです。
『こんなはずじゃないんだ……』と、若くしてパワーを手に入れたのに壁にブチ当たり、悩み悶える――そんな姿こそ等身大の魅力があるのではないでしょうか。
快勝、摺上原! しかしパーティ is over……
天正17年(1588)、粘り強く続けてきた切り崩し策が実り、大崎氏が伊達氏の配下(馬打ち)に入りました。
これで後顧の憂いをたった政宗は南下できるようになります。
相馬氏の領土を落とした政宗は6月になると更に会津へ侵攻。7月には【摺上原の戦い】で大勝利をおさめ、蘆名氏を滅ぼします。
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武力で蘆名氏を滅ぼさねばならなかったのは、外交的敗北の結果でした。
世継ぎが途絶えた蘆名氏の後継者として、政宗は弟の小次郎を据える工作をしたもののこれが失敗。蘆名氏は佐竹氏から義広を迎え入れていたのです。つまり、対蘆名戦は外交努力失敗の結果としてあるわけです。
当時の会津は交通の要衝であり、蘆名氏は衰えたとはいえ大大名でした。これを伊達氏が飲み込んだとなると、もはや南陸奥に敵はありません。
7月白河、10月二階堂、11月石川。こうして、家を滅ぼす、あるいは従えて、政宗の領国は拡大していったのです。
しかし、この時期の政宗にこう言いたい人物がいたはずです。
「まだ合戦で消耗しているの? 時代は外交だよ」
その人物とはあの最上義光。
外交力を発揮した義光は大崎合戦のあたりから、もはや武力でどうこうする時代ではないとピンときていました。
これからは惣無事を宣言した豊臣政権下で、外交力を発揮する時代。義光はいちはやく豊臣政権に接近し、羽州探題としてだけではなく、豊臣政権の政策代行者としての権力行使を目指し始めます。
この両者の違いを、センスだけで判断するのもどうかと思います。
義光は十五里ヶ原の戦いで惨敗、大崎合戦の介入も結果的に失敗に終わり、行き詰まりを感じていました。
一方、政宗は、領土拡大でノリに乗っています。
パーティが楽しめない人は早く帰ろうとし、ノリにのっている人はまだまだ楽しもうとするものです。
「まだあわてるような時間じゃない。北条も健在だ、奥羽のために、俺たちには出来ることがあるはずだ!」
政宗だって何もただ調子に乗っていたわけではなく、彼なりのベストを模索していたのだと思います。
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