伊達政宗

伊達政宗/wikipediaより引用

伊達家

伊達政宗は天下を狙っていた?派手な逸話を検証しながら70年の生涯まとめ!

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伊達政宗
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再び窮地に陥って、花押に穴は開いて……ない!?

紆余曲折の末、豊臣政権の大名となった政宗は、正室・愛姫とともに上洛します。

若く好奇心旺盛な政宗にとって、それは心躍る日々であったことでしょう。

上洛した奥羽の大名は、田舎者と馬鹿にされる日々にストレスをためて「もう外出もしたくない……」と弱音を吐く者すらいました。

しかし政宗は元気いっぱい、活動的に振る舞います。

日本の中心・京都で、今まで学んできた教養、洗練された文才やファッションセンスを発揮するとともに、最先端の文化や流行を吸収。

実は政宗は若い頃から和歌、漢詩、能、茶道、香といった文学・文化にも関心を示し、そして実際にたしなんでおりました。

伊達家当主として恥ずかしくない振る舞い――と言えば聞こえがよろしいですかね。

こうした行動の根底には、同時に劣等感もありました。

そもそも奥羽の大名は、第一印象から第三印象まで「ド田舎から来た」と思われていたんじゃないかというぐらい、馬鹿にされていました。

政宗はそうした偏見に怯むことなく、才知とセンスを見せ付け、「奥羽だからって馬鹿にするなよ!」と頑張っていたのだと思うのです。

自分の努力とパフォーマンスが奥羽のイメージアップにもつながる、そんな「俺は奥羽代表」という意識があったわけです。

そして豊臣政権への参加により、国元では、国替えに奔走することになります。

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本拠は黒川城から岩出山城へ。ただの引っ越しではなく、家臣の知行替えも伴うものでした。しかし独立性を保っていた家臣たちがなかなか国替えに応じず、調整も骨が折れるものでした。

さらなる困難は、奥羽各地で発生した一揆です。政宗も蒲生氏郷らとともに鎮圧に参加しています。

この一揆の続発は豊臣政権にとっても予想外のものでした。そんな中、政宗の旧領で発生した葛西・大崎一揆は、政宗が裏で糸を引いているのではないかとささやかれ、政宗は弁明のために上洛します。

しかし、政宗に対して厳しい叱責はありませんでした。

このとき、政宗は自分のものとされる「花押に穴が開いていない」と弁明した逸話が有名です。

残念ながら、話自体が江戸半ばに成立した軍記モノです。現在、発見された政宗の文書に、穴の開いている花押はありません。

「黄金でできた磔柱を担いだ」という話もありますが、話を盛っているのではないか、あったとしてもそれが政宗放免の決め手ではない、と思います。

この場面を大河ドラマ『独眼竜政宗』で見たとき、私はカッコイイなぁと感心はしたのですが、こうも考えました。

『笑点』の大喜利じゃあるまいし、ノリと面白さで大名の処分を決めていいものか、と。

つまり、ここで政宗を罰するのがよいか、それとも灸を据えてそのまま置く方がよいか、秀吉らも普通の政治的判断で吟味して、後者を選んだのではないでしょうか。

 

「やったー、朝鮮に渡ったぞ、頑張るぞ!」って

天正20年(1592)、「唐入り(文禄・慶長の役)」が始まりました。

前述の通り、このとき政宗は派手な装束で京都の人々を驚かせ、話題をさらいます。

特に、政宗の派手なファッションが話題となり、そのことが「伊達者」という言葉の語源であるという説もあります。

が、正しくはありません。この言葉自体は政宗以前にもあるのです。

ただし、「田舎者とは思えないほどセンスいい物を持ってるじゃん」と他の大名に褒められたこともあります。

朝鮮出兵前のパレードがかなり話題になり、京都の人々が大騒ぎして見物したのは事実です。

現存する政宗の武具もセンスのよいものばかりです。

しかし、このときのド派手ファッションを秀吉に気に入られ、渡海せずに済んだ――というのは史実ではありません。

政宗は渡海しております。

しかも「やったー、朝鮮に渡ったぞ、頑張るぞ!」と浮かれている強烈な好奇心の持ち主です。

渡海して喜ぶ――この政宗の態度は大名の中でも珍しいものでした。

当時名護屋城に滞在していた最上義光が「渡海だけは絶対に嫌だ!」とびくびくしていたのとは好対照。

文禄2年(1593年)4月、朝鮮で政宗は西国大名の築城術を吸収し、母親には土産物を探し回ったのでした。

前述の毒殺未遂事件により山形の実家へ戻ったとされている義姫ですが、事件後4年間は岩出山城にとどまっています。

政宗は母に流行の衣類を土産として贈っていました。

義姫は朝鮮にわたった我が子を心配し、三両の現金と和歌を送りました。海を越えたお小遣いと手紙に感激した政宗は、珍しい土産を探し回り、お返しに贈ったのです。

仲がよいですよね。

残念ながら、このあと義姫は、岩出山城での留守中に伊達家の家臣と揉めて、実家に戻ってしまいますが。

そしてこの二年後、政宗は衝撃的な事件に巻き込まれます。

文禄4年(1595年)、政宗と懇意でもあった関白・豊臣秀次が突如、切腹。政宗にとっては従妹にあたる秀次側室の駒姫(最上義光の二女)が、無残にも処刑されてしまうのです。

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政宗と義光には「謀叛を企んでいる」との嫌疑までかけられてしまいます。

疑いは晴れたものの理不尽な疑いをかけられ、豊臣政権に対して大いなる不快感と不信を抱いたことでしょう。

このとき政宗と義光の取りなしをしたのが徳川家康でした。

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慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が亡くなると天下は揺らぎ、徳川家康と石田三成の間で派閥抗争が起こります。

秀吉の遺言で大名同士での婚礼は禁じられていたにも関わらず、家康は公然と無視。

慶長4年(1599年)には、政宗の娘・五郎八姫(文禄3年・1594年誕生)と家康六男・忠輝(天正20年・1592年誕生)との婚約が成立します。

政局は、決裂に向けて動き始めていくのでした。

 

北の関ヶ原 伊達&最上vs上杉が勃発!

慶長3年(1598年)、豊臣政権は上杉景勝を越後から会津へ移封しました。

会津は豊臣政権にとって伊達や最上に睨みをきかせる土地であり、蒲生氏郷が亡くなってからはまだ若い秀行が跡を継いでいます。

しかし秀行は家康の娘と婚姻しており、会津に置くわけにはいかないと三成らは考えました。

景勝は謙信の代に織田信長と断交して以来、信長の同盟者である徳川家康とは対立関係にありました。

さらに本能寺の変以降は、石田三成経由で豊臣政権に取り入っており、三成と縁が深いわけです。

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奥羽に睨みをきかせる120万石の存在、それが上杉家でした。

慶長5年(1600年)、家康は上杉家重臣・直江兼続の書状「直江状」をキッカケとして、会津攻めを決意。ところが石田三成の挙兵を知った途端に反転し引き返してしまいます。

景勝が反転する家康の背後を突くにせよ、その前に伊達・最上を攻略せねばできません。

ここで「伊達&最上」vs「上杉」の激突構造ができあがるのです。

力量は、両軍の石高からもある程度推察できます。

伊達家の石高58万石

最上家の石高24万石

上杉家は120万石。

ご覧の通り、伊達&最上の両軍あわせても全く届かず、かなり難しい戦力差です。

伊達と最上が力を合わせたところで上杉に勝利をおさめるには難しいところ。かといって、これだけ大きな大名同士の戦いとなれば、強国・上杉家とて一気に潰すことはできません。

彼らにとって当面の目標は最上家。

まず最上を従え、そのあとに伊達。この二家を吸収し、関東へと攻め込む――。

それが上杉家のプランでした。

関ヶ原の結果を知っている後世の者からすると「どうして、そんな時間的余裕があるのか?」と思うかもしれません。

しかし、当時の人はむしろ短時間で決着がつくとは考えていませんでした。

なんせ日本全国の大名が争うのです。

数ヶ月、いや場合によっては数年間にも及ぶ乱世の再到来。豊臣政権による統一前まで時計が巻き戻せるのではないか、そうなって欲しい、そんな風に思う大名も大勢いました。

上杉vs伊達&最上も、すぐに戦闘へと突入したわけではありません。

当初、上杉側は、両家が支配下に入って関東に進軍することを条件として和睦交渉に取り掛かっております。

しかし、最上側が時間稼ぎをしながら戦闘準備を進めていると知った上杉は、2万を率いる直江兼続をすぐさま山形へ派兵。

「北の関が原」と称される【長谷堂合戦】の幕が切って落とされたのです。

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北の関ヶ原のハイライトはこの長谷堂合戦です。フ

ィクションでは政宗が参戦することもありますが、実際には留守政景を援軍として送ったに留まります。

このとき片倉景綱が「山形を見捨てるべきだ」なんて献策したとも言われています。

「最上と直江を戦わせ、双方が疲弊したところでまず直江を討ち、さらに最上を討つ。そうすれば一石二鳥です」

それに対して政宗は、

「母上が山形城にいるのにとんでもない!」

と断るという……『母から殺されかけても救出に向かう政宗って偉いね、チャンチャン♪』というエピソードがありますが、これも荒唐無稽な話です。

この時期、ほぼ戦力が一カ所に集中しているのは三者のうち最上だけで、伊達も上杉も多方面に展開しています。

互いに牽制して動きの取りにくい状況。そんな最中に一人だけ漁夫の利を得る策がうまく行くとは到底思えません。

更には「母親がいる山形城を見捨てるわけにはいかない」という点についても、疑問が残ります。

政宗は政景を援軍として派遣する際に「あまり本気を出さなくていいぞ」と念押ししていました。

動きの鈍い政景に対して義光も何か察知するところはあるのでしょうが、あまりせっつくのも格好悪いと思ったのか、なかなか強くは言えません。

そこで立ち上がったのが義姫でした。

義姫は何度も何度も書状を書き「義光は言いにくいようですが、敢えて言います。早く来てください!!」と何度も念押ししています。

色々と関係がこじれていた最上に伊達が援軍を出したのは確かですので、意地悪く突っ込むのはこのあたりにしておきましょう。

なお政宗自身は「南部方面が気になるので自らは向かわない」と義光に連絡しています。

このとき政宗も山形の動向に注目していました。義光にもアドバイスしていて、この内容がなかなか興味深い。

「最上勢が川を越えたって聞いたけど、マジ? 今回の戦い、言いにくいけど戦術がお粗末でもう見てらんない。これじゃ勝てるものも勝てないよ」

といった感じなのです。

最上家としては伊達家の援軍はありがたいものではあるのですが、ちょっと引っかかるところもあったことでしょう。

政宗がこの時、最上に援軍を出す以外何もしていなかったかというと、もちろんそうではありません。

先ほど義光に対して「南部が気になる」としていたように、伊達は南部利直とも争っておりました。

政宗は和賀忠親に対して南部領で一揆を起こす様に仕掛け、伊達家臣の白石宗直にも南部領攻撃を命じています。

ここで突っ込みたい人がいると思います。

「ちょっと待って! どっちも東軍じゃないの?」

そうです、その通りです。

しかし、前述の通り、関ヶ原において政宗だけではなく多くの大名が、この決戦は長引いて争乱の世に逆戻りすると考えていたふしがあります。

そうなった時に備えて、政宗も南部利直も自領拡大に動いていたわけで、カオス状態で戦っていたのですね。

後に和賀忠親は自殺、あるいは殺害され、政宗は本件の責任を問われることはありませんでした。

そうこうしているうちに9月30日、伊達・最上・直江兼続の元に、関ヶ原における東軍勝利が飛び込んできました。

翌10月1日、兼続は撤退を開始。兼続が自領に撤退してしまったため、政宗は悔しがります。

「最上衆が弱いせいで敵を逃した。最上衆が弱いせいで討ち果たせなくて無念。おかげで利益を得られなかった」

二度も最上衆が弱いと愚痴をこぼす政宗。よほど悔しかったのでしょう。

 

百万石の切り取りOK! ただし自分の力でね♪

長谷堂合戦終結後、政宗は上杉領獲得に乗り出します。

10月6日には桑折で敵を圧倒するものの、松川で大敗し撤退。ただし松川合戦の経過は同時代史料では確認できず、6日には政宗自身が帰陣してしまいました。

政宗が軍事行動について家康に確認すると、「軽挙妄動を慎むように」と助言されます。

なぜなら家康は、水面下で上杉景勝との和睦交渉に取り組んでいたのです。

しかし、堪えきれなかったのか。

翌慶長6年(1601年)正月、政宗は福島周辺で軍事行動を起こし、これは上杉勢によって撃退されてしまいました。

それでも諦めきれなかったのでしょう。政宗は家康に会津出兵を依頼するものの、結局、家康と景勝の間で交渉が進み、6月には景勝が上洛して成立してしまいます。

政宗による北の関ヶ原領土拡大パーティは、いよいよお開きになりました。

ちなみに政宗に対して直江兼続がネチネチと嫌味を言う逸話は、この伊達vs上杉の合戦を元ネタにしたものが多くなっています。

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ここであの話が気になる人も多いことでしょう。

「百万石のお墨付きはどうなったの?」

この件も誤解されています。

お墨付きは「百万石にしてあげる」という意味ではなく「家康に味方して戦ったら、その戦いで切り取った領土をそのまま加増します」という内容です。

つまり百万石加増は参加賞ではない、ということ。

お墨付きが反故にされたのは「南部で一揆を煽動したから」との説明もありますが、前述の通り政宗はこの件では責任を問われていません。

家康「今度の戦いで私に味方したら、切り取り分加増するよ」

政宗「マジっすか!? 百万石切り取ったらそのぶん全部加増ですよね。多すぎるからナシ!とかは、やめてくださいよ」

家康「いいよ、いいよ。百万石切り取れたらね」

こういう内容の話がいつの間にか「参加しただけで百万石」になっていたわけです。

そしてこのオファーは、政宗一人ではなく他の大名にもされたものと思われます。

こんなニンジンをぶら下げられたら、様々な手を使って争うのも納得できるというものです。南部領の一揆もこうした背景があったのでしょう。

そしてその結果が、義光の33万石加増に対して、政宗2万石ぽっちというのも。

政宗が後年この話を蒸し返したとき「下手なことを言うと、かえってあなたが恥をかきますぞ」とたしなめられたそうですが、理由はわかる気がします。

関ヶ原前後は両陣営ともに大盤振る舞いを約束していたとはいえ、伊達家に対して参加賞として百万石は気前が良すぎます。

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