井伊家

子・孫・ひ孫の死を見届けた井伊直平~今川家に翻弄され続けた生涯とは

大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公であり、遠江の有力国衆だった井伊直虎

その一族は大国・今川から常に不条理な圧力をかけられてきたが、その中でも特に辛い思いをしてきたのが井伊直平(なおひら)であろう。

井伊家19代の宗主・井伊直氏の子で、20代宗主。

母親や生年についてはハッキリしておらず、1479年生まれとも1489年とも伝わっており、1563年に急死したため享年は75歳か85歳となる。

当時としては相当な長寿であり、結果、息子の直宗(21代)や孫の直盛(22代)、曾孫の井伊直親(直盛の養子になった23代)などの【死】を見届けてきた。

戦国の世といえども、その心中は計り知れない苦渋に満ちていたであろう。

井伊家宗主死の年表A

しかし、次々と宗主が亡くなる井伊家を支えたのも、ほかならぬ直平であった。

後裔に宗主の座を譲りながら、直平の考えは若い宗主たちに影響を与えたと思われ、今川家や義元を支えた寿桂尼と似たようなポジションだったと予想される。

あらためて直平の生涯を振り返ってみよう。

 

三期に分かれる井伊直平の生涯

井伊直平の人生は、大きく分けて3期に分けられる。

◆A期:国衆(国人領主)として、今川氏と戦っていた時期(黄)

◆B期:今川氏に負け、今川氏の監視下にあった時期(青)

◆C期:今川家臣として、今川氏の命令で出陣していた時期(ピンク)

以下にその様子を年表にまとめてみた。

井伊直平略歴年表

では期ごとにその詳細を振り返ってみよう。

 

A期:国衆としての直平(1504~1513)

永正元年(1504)に家督を譲り受けて20代宗主になると同時に、直平は他の国衆(国人領主)同様、領地経営に乗り出した。

「パクス・トクガワーナ」と呼ばれる天下泰平の江戸開幕から約100年前のことであり、時は戦乱まっただ中。

今川氏親との戦いが激しくなっており、それは1504年に宗主となる以前から続いていた。

むろん、戦いと同時に領地経営にも精を出しており、1507年には龍泰寺に領地3反を寄進するなどの記録が残されている。

今川氏親が同家の当主となるのはその翌年のこと。

地域の戦闘はますます激しくなり、1510年には今川方によって宝光庵が、1511年に井伊家の陣所が焼かれるなどの被害を受けると、その翌年1512年に井伊直平は斯波義達・大河内貞綱と共に志津城を攻撃。

戦闘はいよいよ激しくなるばかりで、さらに1513年に入ると今川氏親によって引馬城(後の浜松城)が攻め立てられ、城代の大河内貞綱はもろくも陥落してしまった。

続いて井伊城(三岳城)が落とされると斯波義達もまた退き尾張へ帰国してしまう。

これにて井伊家は今川の監視下に入るのであった。

磯田道史「直虎」より井伊直平(林寛さん)

磯田道史「直虎」より井伊直平(林寛さん)

 

B期:今川監視下の時代(1513~1536)

1513年、井伊城(三岳城)が落ちる。

と、直平さらに井伊氏は、今川氏の監視下に入った。

このとき井伊谷を離れて避難していたとか、井伊直盛は今川氏の人質として駿府にいたなどの説もあるが、井伊直平が同時期に龍泰寺を建てていることからも、井伊谷に留まっていたと思われる。

ただし、三岳城(三岳山の頂上)から常に監視はされており、残念ながらこの時期の動向はハッキリとした記録がない。

「隙あらば、時が来れば、今川氏にリベンジしたい」とは考えていたハズだ。

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