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【一向一揆】
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【三河一向一揆】永禄六年(1563年)~永禄七年(1564年)
【三方ヶ原の戦い】【神君伊賀越え】と並ぶ、家康三大トラウマの一つです。
松平家の家臣にも真宗を信じている人が多かったため、一揆側についた人も少なくありませんでした。
単なる宗教的な争いにとどまらず、三河一帯で国衆も蜂起した、家康に対する反乱とも指摘されます。
【長島一向一揆】元亀元年(1570年)~天正二年(1574年)
織田信長が総攻撃をかけ、大量虐殺したことで知られる一揆です。
延暦寺焼き討ち事件とあわせて【魔王っぷり】を強調するときに使われますが、織田方も庶兄・織田信広をはじめ、かなり戦死しているのでどっこいどっこいかなぁと。
こちらも詳細は以下の記事へ。
信長が「長島一向一揆」で敵対した宗徒2万人を虐殺~なぜ徹底的に潰したのか
続きを見る
【越前一向一揆】天正二年(1574年)~天正三年(1575年)
この話もややこしいのですが、信長との関わりが強いので、少しだけ詳しくみていきましょう。
まず、天正元年(1573年)、織田信長が越前の朝倉義景を攻め滅ぼします。
朝倉義景とは、信長の義弟・浅井長政が同盟を結んでいた相手です。
朝倉氏の家臣のうち、信長に臣従した者は旧領を安堵され、その中で信長の道案内役をした桂田長俊(前波吉継)が守護代に任じられました。
しかし、長俊は朝倉氏の中では重臣というわけでもなかったため、他の朝倉氏旧臣から反発を受けることとなります。
また長俊は、守護代に任じられた後から図に乗り始め、さらに反感を買います。
ついには元々仲が悪かった富田長繁などが中心となり、長俊をブッコロすため越前の村の人々を味方につけ、土一揆を起こすのでした。
あれよあれよと3万にも膨れ上がった一揆勢。
彼らは一乗谷城を攻略し、桂田長俊も一族もろとも皆殺しに遭ってしまいます( ̄人 ̄)
一揆衆は続けて、府中の旧朝倉土佐守館にいた三人の奉行(木下祐久・津田元嘉・三沢秀次(=溝尾茂朝※明智光秀を介錯した人としても知られます))に攻め込みました。
ここで安居景健(朝倉景健)が調停に入り、上記の三人が越前から岐阜へ行くことで和睦が成立。そろそろ潮時では……という場面でも富田長繁は止まりません。
有力者である魚住景固(うおずみ かげかた)を自らの居城である龍門寺城に招き、次男の魚住彦四郎とまとめて始末してしまいます。
まだ終わりません。
さらにその翌日には、魚住氏の居城・鳥羽野城(現・福井県鯖江市)にいた魚住景固の嫡男・彦三郎をも討ち取って、これまた一族根絶やしにするのでした。
別に魚住氏とは敵対していなかったので、何がしたいんだかわかりません。
それは当時の人々も同じでして。長繁の動向を見て、一揆の参加者や越前の人々は不安になるばかりです。
そりゃあ、敵でもない家を皆殺しにするような人を信用できないですよね。いつ自分たちに矛先が向くかわからないのですから。
さすがに空気を読んだのか。
長繁は民衆をなだめるためにいくつかの政策を出したものの、それでも信望を得るには足りません。
やる順序が逆だったら有効だったかもしれませんけどねぇ。
そしてどこからか”長繁は、信長に「俺を越前の国主にしていただけるなら、織田家に従います」と言っているらしい”という噂まで流れ出しました。
ここで住民、爆発!
長繁と決別するため蜂起した一揆衆は、加賀から七里頼周(しちり よりちか)や杉浦玄任(すぎうら げんにん)を招いて旗頭にします。
二人は本願寺の僧侶。
ですが、例えば杉浦玄任などは越中で一揆勢を率いて上杉謙信や朝倉義景とやりあった戦巧者でもありました。越前の一揆衆にとっては、頼れる顧問のような存在だったといえます。
こうして越前の一揆衆は、七里頼周を大将とする一向一揆に姿を変えました。
最初から浄土真宗徒が結託したのではなく、
【土一揆の民衆】
と
【浄土真宗の僧侶】
が後から結びついたのです。
長繁軍vs一向一揆衆の戦いは3ヶ月ほど続き、ほどなくして味方に裏切られた長繁が背後から撃たれて戦死。
翌日には一揆勢の元に首が届けられ、首実検も行われています。
その後、一揆勢は周辺の朝倉氏旧臣を次々に攻め落とし、ついには越前全体が一揆勢、つまり百姓のものになってしまいました。
当時これを「百姓の持ちたる国」と称していたほどです。
この状況は一筋縄ではいかないと判断した信長は一度軍を引き上げ、他の敵対勢力に対応しながら好機を待ちます。
その機会は案外早くやってきました。
天正三年(1575年)、顕如が越前「守護」として派遣した真宗のエライ僧侶達が、朝倉氏旧臣の領地を独占してしまいます。
さらには「織田軍との臨戦態勢下にあるから」と称し、越前在地の国人衆や民衆に重税や過酷な労働を課していきます。
そのため越前における天台宗や真言宗、そして国人衆や民衆、遂には越前の浄土真宗などが大反発。逆に言えば、身内以外の人から総スカンを食らっていたような状態になりました。
そりゃあ一揆勢からしたら、よそから来た生臭坊主にコキ使われるなんて、真っ平御免ですわな。
一方信長はこの年5月、長篠の戦いで武田氏に勝利しており、また街道の整備なども行って、どの方面にでも大軍で攻め込めるよう準備をしておりました。
そこで入ってきたのが「越前の一向一揆衆が分裂しました!」という報。
再攻略を始めた織田軍が勝利することとなり、一向一揆は収束。
柴田勝家を総司令官とする織田家の北陸方面軍が組織されます。
信長が自ら鎮圧に出向いた越前一向一揆! キッカケは旧朝倉家の内紛だった
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柴田勝家はなぜ秀吉に敗れたのか? 織田家を支えた宿老62年の生涯まとめ
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【石山本願寺一揆】元亀元年(1570年)~天正八年(1580年)
織田信長が10年間苦しめられた戦いです。
本願寺第十一世の本願寺顕如が、雑賀衆・浅井氏・朝倉氏・武田氏・上杉氏・毛利氏など組んで信長包囲網を形成、各地の門徒と連動した史上最大の一向一揆でした。
ここまでくるとむしろ「対信長大同盟」とでもいったほうがいい気がしますね。
ナポレオンと信長ってよく対比されますし。
さんざん殴り合った結果、正親町天皇の勅令による条件つき講和で閉幕しました。
この時期モンゴルに攻められてたら
さて、あらためて室町時代のカオスを確認しておきますと……。
最初の土一揆が【正長の土一揆】で正長元年(1428年)。
一向一揆は近江・金森合戦で文正元年(1466年)。
そんでもって最初の国一揆となる【山城の国一揆】が文明十七年(1485年)です。
この他に嘉吉の乱・応仁の乱をはじめとした武士同士の争いも起きていたわけで、国全体が戦国状態というか、むしろ戦に全く関わってなかった人なんていたんだろうかという状態ですよね。
ホント、この時代に元寇みたいな外患がなくてよかったものです。
海の向こうでは明王朝が、モンゴル系民族との戦いに皇帝が親征して捕虜になったことがありました。
もし日本が陸続きだったり、日本海がもっと穏やかな海だったり、明がさっさとやられたりしてモンゴル民族がまた進出しに来ていたら、三英傑の時代になる前に日本という国がなかったかもしれません。
巨大な敵ができることによって、国内が一致団結してたら別ですが……この後の歴史を見る限り、その可能性は低そうです。
同時代、航海技術に優れていた国というとスペインやポルトガルですが、スペインは1492年までレコンキスタ(vsイスラム王朝の戦い/和訳:国土回復運動)をやっていたので、そんな余裕はありません。
ポルトガルは1249年にレコンキスタを終えていましたが、その後はイベリア半島内での戦争が続いていたため、やはり外征するどころではなかったといえます。
いずれにせよ、当時の航海技術では、日本まで大軍を送ることは難しかったでしょう。
外患のなかった江戸時代末期までの日本。
本当に運が良かったんですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「一向一揆」「加賀一向一揆」
一向一揆/wikipedia
加賀一向一揆/wikipedia