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【一向一揆】
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【越中一向一揆】文明十二年(1480年)~天正四年(1576年)
こちらも、吉崎一向一揆(仮称)と繋がっています。
加賀守護・富樫政親に追い出された真宗信徒のうち、越中の瑞泉寺へ逃げた人々がいました。
現在は「真宗大谷派井波別院瑞泉寺」(富山県南砺市)となっています。
まず、彼らを脅威と感じた越中福光城主・石黒光義が、瑞泉寺を襲撃しようとして返り討ちに遭いました。
「殺られる前に殺れ」は戦の常套手段ですが、それが通じる相手かそうでないか、少し考えてからやりなさいってば(´・ω・`)
その後、蓮如の次男・蓮乗が、瑞泉寺ともう一つのお寺(本泉寺)を、その弟・蓮誓が土山御坊を譲り受け、兄弟で越中に根付き、信徒を教えるようになります。
二人が亡くなった後も、その子孫や親戚によってその状態は続きました。
そして享禄四年(1531年)に加賀の一向一揆勢と本願寺が対立すると、越中の浄土真宗徒は本願寺側につきました。
しばらくして加賀は本願寺が統治することになり、越中は瑞泉寺などの支配下に入り、能登守護・畠山氏や越後守護代・長尾氏、越中・守護代遊佐氏と長く対立していきます。
戦いは、なんと、あの上杉謙信とも行われています(永禄~天正年間)。
謙信というと仏教への信仰が厚いイメージもありますが、彼は臨済宗のお寺で授戒していますので、浄土真宗に対しては躊躇しなかったのかもしれません。
それでなくても越中は、謙信から見て上洛ルートの途中にありますしね。
しかし、元亀三年(1572年)9月の尻垂坂の戦い(富山城の戦い)で加賀及び越中の一向一揆勢は壊滅。
やがて謙信と本願寺の間に和睦が成立し、越中一向一揆は収束しました。
加賀は本願寺と織田信長の戦いにケリがつくまで、あと数年間粘っています。
【加賀一向一揆】長享二年(1488年)~天正八年(1580年)
「一揆衆が百年の自治を勝ち取った!」という点で有名なアレです。
詳細は別記事に譲り、
100年にわたり戦国大名を排除し続けた加賀一向一揆~柴田勝家と対峙した結果は?
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内容を超ザックリ説明しますと……。
富樫政親の要望に応じて本願寺蓮如が送った一向宗の信徒たち。
政親が、彼等を働かせながら、無碍に追い出した事は【吉崎一向一揆】で説明した通りです。
その後、キレた信徒たちは高尾城を攻め落として富樫政親を自害させ、蓮如から「おまえらいい加減にしろ」という書状も無視して、自分たちで治めるようになります。
これを武力で衝突し始めたのが朝倉家であり、そこには名将・朝倉宗滴がおりました。
ただし、宗滴といえども、一揆勢を完全には倒しきれていません。
少し時代が進んで、上杉謙信がプレッシャーをかけたりしながら、いよいよ織田信長が勝家砲を発射。
このカオスの中で柴田勝家は、手取川の戦いにおいて上杉謙信にフルボッコにされますが、なんだかんだで一向一揆も制圧するのでした。
それが1580年というわけで、約100年も自治が続いたんですね。
戦国越前の最強武将・朝倉宗滴が存在感ありすぎて後の義景滅亡に繋がった?
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【享禄・天文の乱(大小一揆)】享禄四年(1531年)
ものすごく関係人物が多くてややこしいので一行でまとめますと……。
「本願寺法主・蓮如が子供を13男14女も作ったせいで相続や権力関係がめんどくさいことになって爆発した一揆」
もちろん一人の妻が産んだわけではなく、妻が亡くなるたびに新しい女性を迎えていたのですが……いくら妻帯おkな宗派だからって精力的すぎるやろ。
【畿内一向一揆(=大和天文一揆)】天文元年(1532年)
元々は管領家の畠山義堯と細川晴元の争いです。
それが、お互いにアッチコッチの守護大名や本願寺などを味方につけようとした結果、本願寺宗徒(一向一揆勢)が暴走して奈良を燃やすなどの蛮行を働くという「(゚Д゚)ハァ?」な展開になりました。
味方につけようとした晴元も最終的には一揆鎮圧に手こずっているので、もうなんとも言えません。
「庶民であっても、集団になれば権力者の手に負えなくなることがある」
それを証明した一件ともいえます。
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