上泉信綱

群馬県前橋市にある上泉信綱像/wikipediaより引用

剣豪・忍者

上泉信綱の生涯|多くの剣豪を育てた新陰流の祖は信玄の誘いを断り修行の道へ

2025/07/20

戦国武将と並び、人気のある時代劇の主役といえば、剣豪。

特に新陰流を起こした上泉信綱は数多の剣術の祖として知られ、特別な存在である「剣聖」と呼ばれるほど。

宮本武蔵のような派手なエピソードがない代わりに、武田信玄の士官を断って剣術修行に出たとか、柳生宗厳や北畠具教に剣術を指南したとか、戦国好きが震えてしまいそうな経歴をお持ちです。

ただ、剣の道に没頭しすぎたせいか。

生年月日だけでなく生没年すら不詳であり、元亀2年(1571年)7月21日『言継卿記(ときつぐきょうき)』の記録を最後に消息を絶っておりまして……。

なぞ多き上泉信綱の生涯を振り返ってみましょう。

群馬県前橋市にある上泉信綱像/wikipediaより引用

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上泉信綱が修めた念流・神道流・陰流

前述の通り上泉信綱は生年が不明。

父は上泉秀継と目されており、この一族は上野国(群馬)に勢力を有していた国衆・大胡(おおご)氏の一族でした。

信綱は次男でしたが、16歳のときに兄が亡くなり、家督を継ぐことに。

剣術については関東武士の間では一般的だった【念流】を学ぶほか、下総国(茨城)の香取でも【神道流】を修めたと伝わります。

念流とは、僧侶であり剣術家でもあった念阿弥慈恩(ねんあみじおん)という人物が南北朝時代に始めた流派です。

剣術家というと上泉信綱が始祖――みたいなイメージもあるかもしれませんが、そもそも信綱が創始した【新陰流】も、彼が享禄2年(1529年)に【陰流】の極意を習得し、それをベースに始めたものになります。

なお、新陰流を始めたのは天文10年(1541年)代と考えられています。

これが信綱と親交を持った柳生石舟斎(やぎゅうせきしゅうさい)こと柳生宗厳(やぎゅうむねよし)へと引き継がれ。

さらに【柳生新陰流】に発展して柳生宗矩が江戸時代に超ビッグネームとなるため、上泉信綱に剣術家の始祖みたいなイメージがあるのかもしれません。

柳生宗矩の木像(芳徳寺)/wikipediaより引用

 


信玄の誘いを断ってまで武者修行へ

このように剣術家のイメージが強い上泉信綱は、当初、一武将として関東管領・上杉家に仕えていました。

北条氏ともドタバタがありながら、後に信綱が武名を挙げるのは箕輪城主・長野業政(長野業正)に仕えてからのことです。

戦乱の世では剣一本で生きていくことは不可能ですので、仕方のないことだったのでしょう。

この業正のもとで信綱は活躍をして「上野国一本槍」という感状(主君などから贈られる活躍を称える感謝状)をもらうほどの活躍をしております。

詳細は不明ながら、やはり戦場での武働きはピカイチだったのでしょう。

長野業正は、あの武田信玄の侵攻を6度も食い止めたという伝説もあるほどです。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

長野業正(長野業政)
長野業正の生涯|信玄を六度も追い返した伝説を持つ上州箕輪城の名将

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おそらく後世の作り話という見方が強いですが、信玄相手に業正が奮闘したのはおそらく間違いなく、上泉信綱がその一翼を担っていたのかと思うと胸アツですね。

実際、業正の死後である永禄9年(1566年)、その息子・長野業盛が武田軍に破れると、宙に浮きかけた信綱を信玄が旗本に抱えようとしたぐらいです。

しかし、信綱はその誘いを断わります。

武芸者として【新陰流】を広めることにしたのです。

 

柳生の他にもズラリと並ぶ著名な門弟たち

上洛して(京都に出て)剣術家として生きよう――。

そう決意した信綱は、伊勢の北畠具教を訪ねました。

北畠具教/wikipediaより引用

名門一族として知られる北畠具教ですが、同時に剣術家として知られており、これまた剣豪として著名な塚原卜伝から【一之太刀】を習得しております。

北畠の館「太の御所」には多くの武芸者が集まっており、信綱が柳生宗厳と知遇を得るのもこの場所でした。

というかお互い剣術家らしく3日間も仕相(しあい)をしております。

後に竹刀(蟇肌撓・ひきはだしない)を発明する信綱ですが、このときは木刀が使われていたのでしょうか。

結果は、上泉信綱の完勝――こうした経緯を経て、柳生が信綱の新陰流を学ぶに至ります。

では他に弟子は?

というと、これが非常に多くいたとも考えられ、以下のような門弟がずらり。

・疋田豊五郎(疋田陰流)

・神後伊豆守(神後流)

・上泉秀胤(上泉軍法)

・上泉主水正(会津一刀流)

・宝蔵院胤舜(宝蔵院流槍術)

・奥山休賀斎(神影流)

・丸目蔵人佐(タイ捨流)

・駒川太郎左衛門(駒川改心流)

・松田織部之助(松田新陰流)

・狭川甲斐守(狭川新陰流)

漫画やゲームにも登場するメンツばかり揃っていて凄まじいですね。

そう考えると、上泉信綱はやはり実質的な剣術の始祖と言って差し支えないかもしれません。

 

『言継卿記』に幾度も登場 その記録とは?

彼の名は同時代の人間にはよく知られていたようで、これまた剣豪将軍として名高い足利義輝に講義をしたという記録もあります。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用

一番よく出てくるのは、意外にも山科言継(やましなときつぐ)という公家の日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』です。

この人、公家にしてはかなりアグレッシブというかイレギュラーというか、この時代に仕事でとはいえ自ら尾張まで行って織田信秀(信長のトーチャン)と親睦を深めたり、京では庶民と一緒に風呂に入ったりとなかなか面白い人です。

ついでに、気に入った人とはとことん付き合う質だったのか。

信綱の名前はなんと三十回以上も日記に出てくるようで、いくらなんでも好きすぎです。

まるで吉田兼見と明智光秀のような関係ですね。

※『兼見卿記』という日記に、光秀の名前が何度も出てきております

この言継卿記に信綱が初めて出てくるのは永禄十二年(1569年)のこと。

長野家が滅亡して、上野国を出てから3年後ですね。

どうやら信綱がお寺に出かけるとき、言継にお供をしてもらうとか、そんな関係だったようです。

公家の面々に剣術を披露することなどもありました。

 


中央での出世や権力には興味ナシ

元亀元年(1570年)に【従四位下】という位階をもらったことも『言継卿記』に書かれています。

どのくらいエラいのか?

といいますと、秀吉政権時代に大名の嫡子が初めてもらう位が従四位下ですから、なかなかのものです。

日頃から公家とお付きあいがあっただけでなく、剣術を天皇の前で披露してもいたので、その辺も評価されたんですね。

とはいえ位階をもらった翌年(1571年)には京を出て行ってしまうので、中央での出世とか権力には興味がなかったのでしょう。

剣豪っぽいストイックさです。

このとき言継から下野国(栃木県)の結城家へ紹介状を書いてもらったとのことなので、おそらく結城晴朝(家康の次男・結城秀康の義理のお父さん)に何かしらやっかいになったと思われます……。

結城晴朝/wikipediaより引用

ただ、言継卿記にもさすがに関東のことまでは書かれていないので、信綱の足跡はここで絶たれてしまいました。

そのため、亡くなった日付も場所もあいまいになっているというわけです。

天正五年(1577年)ではなく天正元年(1573年)が没年との説もあります(山科言継編『歴名土代』)。

 

木刀で怪我したら意味ないから竹刀を発明

最後に「竹刀」について見ておきましょう。

それまで剣術の稽古は木刀を使うのが主流。死傷者が出るのも珍しくはありませんでした。

信綱は「それじゃ意味ないだろ」と考えたらしく、剣と同様に扱えてより殺傷力が低く、稽古向きの「蟇肌撓(ひきはだしない)」という新しい道具を作りました。

割った竹を馬の革で包み、漆を塗ったもので、現在の竹刀へと繋がります。

現在でも柳生新陰流や他の流派で多く使われており、そう考えると「剣道」の始祖としても捉えてよいかもしれません。

また、映画の殺陣ばりにカッコよすぎる逸話もあります。

ざっとマトメますと……。

あるとき、上泉信綱は旅の途中でなにやら騒ぎに遭遇しました。

村人に話を聞くと、通りすがりの不届き者が村の子供を人質に取って小屋に立て篭もるという、困った状況とのこと。

腕の立つ者が村にはおらず、説得しようにも犯人は聞く耳持たずで難儀していたそうです。

「剣を持つ者として許せん!」

そんな正義感に駆られたのか、それとも「子供を見殺しにすんのも後味が悪いしなあ」とイヤイヤだったのかまではわかりませんが、信綱は一策講じました。

居合わせた僧侶から袈裟を借り、さらに村人から「子供を助けるために、ちょっとおにぎりを作ってくれ」と頼んだのです。

村人は口ポカーン状態だったでしょうが、藁にもすがる思いでおにぎりを用意してくれました。

そして信綱は袈裟に着替えてくるなり、立て篭もり中の小屋に向かって「いつからそうしてるのか知らんけど、お前もその子も腹減ってきてるんじゃないか?ここにおにぎりがあるから、とりあえず食べな」と穏やかに話しかけました。

図星だったのか、犯人はあっさりそのおにぎりを受け取りに出てきます。

そこを信綱ががっちり取り押さえ、誰にもケガをさせることなく子供の救出に成功した……。

映画『七人の侍』(の1シーン)の元ネタになったと言われている出来事です。

地名や時代が全く伝わっていないので信憑性に疑問符がつきますが、もし事実であればおそらく京を出てから結城家へ向かうまでの話でしょうか。

言継に話していれば、おそらくや『言継卿記』に記録されていたでしょうから。

もしかすると京に行くまでの出来事で、すっかり忘れてたって可能性もありますけども。

あるいは本人からすると、たいしたことじゃなかったかもしれませんね。

なんせ信玄の誘いを断っているぐらいですし。

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【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『日本剣豪100人伝』(→amazon
長野峻也『日本武術達人列伝: 剣豪・柔豪・昭和の武人』(→amazon
上泉信綱/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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