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最上家

駒姫(最上義光娘)の処刑は理不尽の極み!東国一の美女が秀次切腹に巻き込まれ

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たとえ戦国時代とはいえ、あまりに理不尽で腹立たしく、とにかく異様としか言いようがない――。

そんな事件が1595年に起きました。

駒姫」が連座で殺された豊臣秀次切腹事件です。

 

駒姫が側室になる前だったにも関わらず

駒姫とは、最上義光の娘で、東国一の美女として知られておりました。
その噂を聞きつけた豊臣秀次が、自身の側室に差し出すよう義光に迫り、そしてそのため出羽から京へ送り出されたのです。

しかし、その直前に肝心の豊臣秀次が自害で果ててしまうのです。

それだけならまだしも怒り狂った豊臣秀吉が、秀次の妻や側室、子供たちだけでなく侍女らなど約40名を処刑したのです。

その中に、駒姫も含まれておりました。

武家の男子は、たとえどんなに幼くても父に連座して処刑されるのは通例となっております。
平清盛が、幼い源頼朝義経を助命してのちに復讐されたためとされています。

しかし女子の場合、助命されます。

例えばこのルールが適用された例として、大坂の陣での豊臣一族も挙げられるでしょう。
秀頼の幼い息子は処刑されながら、娘は出家させられ、尼として天寿を全うしております。

徳川家康が宿敵である豊臣にとった処置と比較すると、秀吉の秀次に対する仕打ちがいかに異様であったかお察しいただけるハズです。

 

「豊臣の世は続かない」民衆も呆れ返る凄惨な事件

また、処刑だけではなく、遺体への処置も異常なものでした。

まず処刑前、妻子たちは秀次の首を拝まされました。
暑い季節です。腐敗が進んでいたことでしょう。

そして最初に殺されたのが、まだ幼い子供たちでありました。
母親の目の前で、子供たちをつかみ刺し殺す――それから我が子の遺骸を抱いた母の首を順番で刎ねたのです。

骸は穴に蹴落とされ、遺族に引き渡されず、そこには「秀次悪逆塚」と記した石碑が置かれました。

殺された人選も謎です。
秀次の妻でありながら助命された者もいるかと思えば、生前の顔すら見たことがないのに巻き込まれた者もいました。

秀次の妻というよりは、秀次に保護されていただけと思われる少女や、近くに仕えていたと思われる老齢の尼も含まれています。

もう、無茶苦茶です。
秀吉が何を考えていたか、まったく理解できず、ただただ推察するほかありません。

もっとも動機は重要ではないかもしれません。
大事なのは、この事件が世間の大反発を招いたことでしょう。
事件に巻き込まれた大名から、処刑のむごたらしさにあきれかえった民衆まで、皆が豊臣の世は長く続かないだろうと憤りを感じていたのです。

まさに世論を動かした事件でした。

豊臣秀吉/Wikipediaより引用

 

駒姫以外は家臣に嫁いだ最上家の娘たち

惨殺された中でも、特に悲劇的とされたのは、最上義光の二女・駒姫でしょう(三女という説も見かけますが二女です。お伊満の方、お伊万、お今とも)。

享年十五歳という若さも気の毒なことながら、彼女は秀次と顔をあわせたことすらありませんでした。

そもそもなぜ、出羽の大名の姫君が関白の側室となったのか。
その経緯をたどると、伝説的な部分が見えて来ます。

出羽の姫君が関白の側室になった理由――そんな疑問の解明から進めて参りましょう。

畿内から遠く離れた東北の姫が関白に見初められた理由は色々と推察できます。

まず考えられるのが、最上義光の野心説でしょうか。

しかし、これはあまり説得力がないと思います。
秀次のもとには、既に有力公家や大名らの娘が正室や側室としておりましたし、その間に子供も誕生していました。

駒姫が彼女らを押しのけて寵愛を受け、そのおかげで最上家が引き立てられることが果たしてできたか?
大勢いる関白の側室になるより、大名の正室として別のドコかの家に嫁ぐ方が、メリットがあるのではないでしょうか。

ちなみに義光には娘が四人いますが、駒姫以外は全て家臣に嫁いでいます。
義光の息子たちも大名家から妻を迎えていないようで、義光はあまり政略結婚に乗り気ではなかったのかもしれません。

このあたりは今も伝わっている「義光は何度も秀次の依頼を断った」という話と矛盾しないと思います。

豊臣秀次/Wikipediaより引用

豊臣秀次/Wikipediaより引用

 

秀次を接待した? 山形県民があの大河に苦い顔をした理由

野心説とあわせて考えられるのが、天正19年「九戸政実くのへまさざねの乱」のときの話です。
その際、山形城に立ち寄った秀次に対して駒姫が接待をしたというもので、現在も人気のある大河ドラマ『独眼竜政宗』でも出てきました。

実はこの話には出典があります。
伊達政宗の家臣である伊達成実だてしげざねが記した『成実記』にこんな記載があるのです。

「最上在陣の折、駒姫を秀次に差し出した。大名とは思えないほど卑屈なことだと噂していたところ、この始末。天下の笑いものになったことこのうえない」

「ざまあみろ」とでも言いたげなこの記述を読むと、いくらアンチ最上だからと言ってここまで書く必要があったのか、と思ってしまいます。

この記述は広く信じられました。
顔も見ずに恋するなんておかしいと思う人も多かったからでしょう。

しかし、この記述はおかしいのです。

肝心の「秀次が最上在陣の折」というタイミングですが、このときの秀次進軍ルートに山形城は入らなかったのです。
さらに最上家や瑞泉寺に伝わる記録では、駒姫は生前、秀次の顔を見たことがないとされています。

ゆえに、接待説はありえず、駒姫は生前の秀次に出会ったことがなかった、伊達成実は嘘までついて最上を貶めた、ということでよろしいのではないでしょうか。
どうにも『成実記』は、最上に関しては事実をねじ曲げた記述があるようです。

「山形県民が『独眼竜政宗』にクレームを入れた」ことを現在でも批判的にとらえる意見はあります。

しかしあの作品は、『最上義光関連で最も大切にして欲しい』と山形の人が考える駒姫について多くの誤解を招く表現がありました。

義光が駒姫に秀次への接待をさせた場面。
さらに義光の目の前で献上された駒姫を秀次がなで回す場面。
政宗正室の愛姫に義光が頭を下げ、駒姫の助命嘆願をするという場面。

いくら何でもちょっとやり過ぎですし、放送当時にツイッターがあったならば炎上しかねない内容でした。

 

「東国一の美少女」その噂が不幸の始まりでは……

ここまで整理して考えると、古くから伝わる「東国一の美少女」という噂を聞きつけた秀次が、駒姫を強く所望した――という説でよろしいかと思います。

両親ともに足利一門の血を引く(父・最上氏、母・大崎氏)という、駒姫の血筋の良さも関係しているのかもしれません。

しかし残念ながら、こうした伝説的な断片情報だけでは、駒姫が具体的にどんな容姿であったか、どんな性格であったか、そうした情報はほとんどありません。

処刑の様子を目撃した証言では、まだ幼さを残す花のつぼみのように可憐な姫君であったと伝わります。
駒姫には大変かわいらしい、萌え絵にも通じるタッチの肖像画があり、以前は図説等で見かけました。

しかしこの絵は大正時代のものですので、当時の姿を伝えるものではありません。

おそらく最古と見られる供養のために描かれた肖像画は瑞泉寺に所蔵されていますが、こちらは他の秀次妻子と顔の特徴がほぼ変わらないので、あまり参考になりません。

そんなおぼろげな姿でありながら、いやだからこそ想像の余地があるのか、彼女の最期は伝説化していきます。
かなり早い時期から、秀次の顔すら見ていないのに死を迎えた姫君として名が広がっていくのです。そして……。
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