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【蒲生氏郷】
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冬姫の影響力も懸念して飛ばされた?
信長時代と同じように、秀吉時代にも変わらぬ活躍をしていた蒲生氏郷。
九州征伐の後に三重へ封じられて松坂城を築きました。
読み方は「まつさか」で濁らないそうです。
石垣に、古墳の石棺のフタ(!)を使ったり、住民を強制的に移動させたり、前の領地の商人を連れてきたり。
なかなか強引なところもあったようですが、立派な城下町を造り、商都としても栄えさせます。

松坂城の月見櫓石垣
おそらく、この時期が彼の最盛期だったでしょう。
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それ以前からの功績と合わせ、奥州仕置の後に会津転封を命じられるのです。
当初は42万石。
加増を経た最終的な石高はなんと91万石で、数字だけ見れば凄まじい大出世です。
しかし……氏郷本人は男泣きに泣いたといいます。
「こんな遠いところに封じられては、上方で何か起きたときすぐに働けない」
近江で生まれ育った氏郷にとって、東北は気候も文化も馴染みのない、異世界も同然の場所です。
たとえ石高が大幅に増えようとも、上方との繋がりが絶たれてしまいかねない場所は、素直に喜べなかったのでしょう。
秀吉は表向き「関東(家康)と東北(政宗など)の押さえに」と言っていながら、氏郷の人望や野心を警戒していた……なんて説もありますね。
もしくは、氏郷の正室の影響を恐れたのかもしれません。
後に蒲生家は、彼女(冬姫)が信長の娘であるというおかげで改易を免れていますから、信長の記憶が色濃い当時、もっと影響力が強かったでしょう。
それが会津ではあまりに遠く、しかし氏郷も、ゴネ続けることのできない律儀な人。
素直に東北の玄関口へ渡るしかありませんでした。
現代人にはピンと来ないかもしれませんが、会津エリアは、あの伊達政宗も異常に執着するほど、東北で存在感の大きい場所でした。
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会津に渡って胃痛の連続だったのでは……
覚悟を決めて会津・黒川の地に移った蒲生氏郷。
城の名を蒲生家の家紋にちなんで「鶴ヶ城」と改め、七層もの天守を持つ大きな城に改築しました。
現在の会津若松城は五層ですが、あれは江戸時代に改築された姿が元になっているそうで。

冬の会津若松城(鶴ヶ城)
この地にいた頃には、茶の湯の師匠である千利休との悲しい別れもありました。
氏郷は後々”利休七哲”に数えられたほどの高弟ですが、師の助命に動くことができず、それを深く後悔していたようです。
その現れでしょうか。利休が切腹した後、氏郷はその義理の息子(後妻の連れ子)である千少庵を引き取ります。
※秀吉が氏郷に預けたとする史料もあります
その時点では”罪人の息子”だった少庵が、会津でどのように暮らしていたのか、細かいことはわかりません。
しかし、彼は若松城の本丸に「麟閣」という名の茶室を作ることを許されていますので、ある程度の自由は与えられていたようですね。
その後、氏郷や家康の取りなしで少庵は罪を許され、京で茶道の表舞台に戻ると、孫の代で「三千家」が創始されていますので、日本文化に与えた影響は計り知れませんね。
氏郷は城以外でも、自領の発展に力を注いでいます。
町の名を黒川から「若松」に改め、自らも信ずるキリスト教への改宗や商業政策を重視し、町を大きくしていきました。
会津若松城だけでなく、会津というと「幕末」のイメージが強いかもしれませんが、地盤を作ったのは蒲生氏郷だといえそうです。
伊達政宗とは、史実においても対立していました。
対立というよりは小学生のケンカみたいなもんですかね。
「政宗の陰謀が氏郷にバレて秀吉に報告される」というパターンが複数回。
そのたびに政宗が、しょーもない言い逃れをするので、氏郷としては相当ストレスが溜まったでしょう。
しかも、結局は秀吉に許されてしまうという……。
とりわけ注目すべき事例が天正十八年(1591年)の葛西・大崎一揆ですね。
その遠因は、秀吉の行った奥州仕置でした。
葛西・大崎一揆
葛西と大崎は、それぞれ陸奥の大名家でした。
両家とも、奥州仕置までは伊達家に従属。そのため伊達家の意向を確認できないうちは、勝手に兵を出すことはできません。
そう、それが例え関白の名のもとに行われた小田原征伐であっても。
伊達家自体、小田原へ出向くかどうかはギリギリ……といいますか、タイムオーバーまで意見が割れていました。
となると葛西家も大崎家も動けません。
政宗は、ほぼ丸腰・少人数で小田原へ出向き、なんとか改易を免れましたが、葛西家・大崎家は秀吉に
「関白の命令を無視したけしからん! 改易!!」
という無情な判断を下されてしまったのです。
政宗としても、自分の家がかろうじて助かったというところですから、他所の家をかばうことはできません。
そんなわけで葛西家と大崎家は改易され、秀吉によって新しい領主が派遣されてきます。
旧葛西領には木村吉清、旧大崎領にはその息子・清久。
彼らは秀吉にとっては忠実な家臣でしたが、葛西・大崎両家の旧臣や、領民たちにとっては赤の他人です。
定石として、まずは人心掌握の懐柔策を実施しなければいけない場面で、木村親子は秀吉に忠実であろうとするあまり、検地や刀狩りを厳しく行ってしまったのです。
また、木村親子は元々身分が高かったわけではないので、その家臣たちは俄仕込みばかり。
昨日まで一般人だったのに、いきなり権力を与えられ、思い上がって領民に乱暴する者が多発しました。
まさに悪手に継ぐ悪手。
葛西・大崎旧臣も領民も、ついに耐えきれずに大反発だぁ!
……と、こうして一揆に発展してしまったのです。
佐沼城に立てこもった木村親子は、周囲の状況を考えると陥落は時間の問題。
そもそも彼らに大軍の指揮経験などなく、団結した一揆勢に叶うはずがありません。
「状況を打破せよ」
と、そこで命じられたのが、氏郷と政宗でした。
かたや信長にも認められたエリート、かたや地元を熟知した生え抜き。
この二人でなくても衝突しそうな構図ですね。
しかも道中、氏郷に「この一揆は裏で政宗が手を引いていますよ」という報告が入ったものですから、さぁ大変。
密書は出るわ、伊達軍は空砲を撃っているという証言が出るわで、このままいけば氏郷の身まで危なくなりそうな空気です。
結果、氏郷は秀吉に連絡を入れつつ、最悪の事態を避けるため、伊達軍と離れて行動しました。
「伊達殿からも人質を出していただきたい」
疑いを晴らすため――政宗は木村父子を即座に救出しました。
しかし、この程度で氏郷は納得しません。
「異心のない証として、伊達殿からも人質を出していただきたい」
と伝えると、政宗もこれに応じ、伊達成実と国分盛重を人質に出します。
政宗から見て成実は従弟で盛重は叔父。
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当然、家中での序列も高い二人ですから、氏郷もこれで一応は納得しました。
その後政宗の取り調べ等々が始まるのですが、氏郷の話題からは離れてしまうので、ここで一旦区切りましょう。
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真面目な見方をすると、政宗が無事に済んだのは
「長期的に見た場合、伊達家ほどの大勢力を改易してしまうと、デメリットのほうが大きいから」
だと思われます。
奥州仕置で減封されたとはいえ、伊達家は鎌倉時代から続く名家です。
代々仕えている家臣は多く、さらに政宗の父・輝宗の代には積極的な人材登用を行い、比較的新参の家臣も能力があれば重んじられていました。
加えて、政宗の曽祖父・稙宗と祖父・晴宗が超がつくほどの子沢山だったため、親戚も奥州の各地に点在しています。
そんな大きな家を、一気に潰してしまったらどうなるか?
主人の政宗や息子たちは切腹させれば済むとしても、家臣や親族はそのまま浪人になってしまいます。しかも数百人単位で。
そうした連中を野に放って恨まれるより、伊達家の枠に収めてしまった方がまとめる効果は高いですよね。
しかし氏郷と政宗の縁はまだこれで終わりではありませんでした。
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